諸葛孔明は、なぜ親戚の劉表に仕えず、劉備の「三顧の礼」に応えたのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第51回
「三国志」における有名なエピソードに、「三顧の礼」がある。

連環図画三國志(上海世界書局 中華民国16年)より
「君は妻をさがしているそうだな。私の娘は醜女(しこめ)で色黒だが、才智は君とお似合いだ」
あるとき、荊州の襄陽(じょうよう)に住んでいた諸葛亮(孔明)は、黄承彦(こうしょうげん)に言われた。興味を覚えたのか、それとも断れなかったのか。孔明が承知すると、承彦はすぐに娘を車に乗せて送り届けてきた。
「孔明の妻えらびを真似するな、承彦の醜女をもらうはめになる」などと、郷里の人々は諺(ことわざ)にして笑いあったという。やや滑稽な話だが、これは『襄陽記』という史料にある逸話だ。
この黄夫人、正史ではそんな程度の出番だが、後世に編まれた物語では賢妻の鑑とされ、黄月英(げつえい)などの名を持つ。「うどん」を自動的に造る人形とか、火を噴く木獣を編み出した発明家として登場するものもある。
正史では孔明が発明したとある木牛(もくぎゅう)流馬(りゅうば)も、この女性が発明したと記す物語もある。映画『新解釈・三國志』は、そうした物語に着想を得てか、孔明の手柄はすべて奥さんが考案したというアレンジがされていた。
ただ、史実でもこの縁組は孔明にとって非常に大きかった。義父の黄承彦は、襄陽では知られた人傑だが、その基盤は蔡瑁(さいぼう)という有力豪族の姉を妻にしていたことによる。
蔡瑁といえば、荊州刺史(しし=地方長官)である劉表の重臣。中央政府から赴任してきた劉表を助け、統治を大きく後押しした人物だ。さらに蔡瑁は、もう一人の姉(黄承彦の妻の妹)を劉表に後妻として嫁がせていた。つまり黄承彦と劉表は義兄弟の関係である。
よって承彦の娘との結婚は、単に頭のいい娘をもらったわけではない。劉表陣営と結びつくことであり、孔明が荊州人士の一員となることも意味した。立派な政略結婚であった。
だが、こうして襄陽に足場を築いた孔明だが、ついぞ「親戚」の劉表には仕えなかった。この時代、荊州に住みながらも劉表に仕官を望まなかった人は他にも多い。その代表格が司馬徽(しばき)である。人物鑑定家であり、水鏡先生の異名で知られる隠者で、その門下生に徐庶(じょしょ)、龐統(ほうとう)といった賢人がいる。彼らも劉表には仕えなかった。なぜだろうか。
それは、ひとえに劉表が「守成の人」だったからではないか。司馬徽に師事した韓嵩(かんすう)は、劉表に仕えた人だが、彼は北伐をしきりに勧めた。とくに「官渡の戦い」で曹操が袁紹(えんしょう)と戦っているとき、背後を突くよう挙兵をうながした。
しかし、劉表は兵を起こさなかった。その陰には、蔡瑁の存在があったのかもしれない。蔡瑁は曹操とは旧知の間柄だ。曹操が南下して荊州を得ると、蔡瑁は高位高官で優遇されている。劉表陣営では、この蔡瑁や彼と近しい人物が絶大な権力を得ていたし、新参者が好き勝手にできない状況だった。
こうした政治状況から、劉表のもとでは、ひとときの平和は保ち得ても、諸侯を統べ、漢王朝を復興するなどという気勢をあげるのは不可能。そう見る者が多かったのであろう。やはり孔明も、司馬徽らと同じく隠者として時を過ごす道を選んだとみられる。
その後、曹操に負けて襄陽へ逃げてきた劉備が、孔明に目を付けたのは当然の成り行きといえた。かたや孔明としても、劉備は注視すべき存在だったのかもしれない。
そもそも孔明は荊州の人ではなく、北方の徐州琅邪郡(じょしゅう・ろうやぐん)からの移住者だ。幼くして父を亡くし、叔父の諸葛玄(げん)に連れられて、南方の襄陽に身を落ち着けた。いわば、よそ者である。だからこそ荊州の人脈と居場所を求め、黄承彦の娘を妻に選んだのだ。
孔明は、いつごろ徐州を離れたのか。その時期は具体的には述べられないが、曹操による「徐州虐殺」の時期(193年)ではないかとみられる。これは曹操が引き起こしたジェノサイドで、数万とも数十万ともいわれる男女が殺された。孔明13歳のときだ。このころ、魯粛(ろしゅく)や歩騭(ほしつ)などの人士たちも長江を渡って南方へ逃れている。
このジェノサイドの直後、徐州の統治者・陶謙(とうけん)は亡くなるが、彼は劉備に徐州の統治を託す。結局、のちに劉備は戦いに敗れて徐州を追われ、紆余曲折を経て襄陽へやってくる。自分の故地ともいえる徐州の統治者で、名声も高い劉備。その存在を孔明が意識していたとしても不自然ではないだろう。
三顧の礼、つまり劉備が孔明の家に三たび足を運んだのは、物語では西暦207年とされる。孔明27歳のときだ。史実では、もう少し早かったかもしれない。『魏略』という史書には、孔明の方から劉備のもとへ面会に赴き、仕官を求めたという別説も紹介されているほどだ。
自分が仕えるに足る男か・・・。親子ほど歳の離れた劉備と面会した孔明は、その人柄にまず興味を抱いたのだろう。いわゆる「天下三分」の方策を示すと、はたして劉備は心を動かした。孔明は「働き場所を得た」と思っただろうし、劉備は「魚に水が必要なように、わしには孔明が必要だ」といった。かくして両者は日に日に親密になっていったのである。