×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

曹操の軍師・荀彧は、なぜ悲惨な最期をとげたのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第53回


劉備の軍師が諸葛亮(しょかつりょう)ならば、曹操にとっての軍師といえば第一に荀彧(じゅんいく)に他ならない。「軍師」の職名を実際に冠したことはなかったが、曹操を覇者へと導いた「王佐の才」で知られる人だ。そんな彼が、なぜ非業の最期をとげなければならなかったのか?


名門出身で身なりも良かったという荀彧(163~212)を模した人形。製作・川本喜八郎。(C)川本プロダクション

 四字熟語に「良禽拓木」(りょうきんたくぼく)という言葉がある。優れた鳥は棲む木を択(えら)ぶという意味だ(出典『春秋左氏伝』)。

 

 荀彧は最初、冀州(きしゅう)の韓馥(かんふく)に仕えようとしたが、行きがかり上、袁紹(えんしょう)に仕えた。上賓の礼をもって迎えられたが、ほどなく袁紹を見限って曹操のもとへ走った。良禽拓木である。曹操が、自身を劉邦になぞらえ「わが子房(しぼう=張良のこと)が来た」と喜んだことは有名だ。

 

曹操の留守を預かる監督代行

 

 荀彧という人は基本的には遠征に出ず、主に留守を預かり、曹操の政務を代行することが多かった。このあたり郭嘉(かくか)や荀攸(じゅんゆう)のような、いわば「常在戦場」型の軍師と違うところで、長期戦略を立てる行政官だった。

 

 196年、曹操が献帝(漢の皇帝)を自領に迎え入れたのも荀彧の助言を受けてのことだ。戦乱を避け、洛陽に逃れていた献帝を、荀彧はただちに保護するよう献策。これに従った曹操の軍はいわば「官軍」となって大躍進する。そして袁紹を破った官渡の戦い(かんとのたたかい/200年)でも、曹操は出征先から軍の進退を荀彧に相談したほど、その存在は大であった。

 

 以後、荀彧は都(許都)の献帝のお膝元に滞在。いっぽう、曹操は袁紹の旧都・鄴(ぎょう)を拠点にした。つまり荀彧は曹操のそばにはおらず、献帝つまり漢の臣下という立場にあった。また荀彧の意見は常に文書で送られたといい(『荀彧別伝』)、このドライな距離感が歪みを生んでいったのかもしれない。

 

 曹操は荀彧の功績を賞し、三公(最高位の官職)に推薦しようとするも、荀彧は何度も辞退した。彼が次第に自分の意に従わなくなっていくことを曹操も察していたかもしれない。そして曹操が北方を平定して南方へ攻め入った赤壁(せきへき)の戦い(208年)の前後より数年、荀彧の名は表舞台から消える。

 

謎めいた急死

 

 212年、権力を増した曹操が「魏公」(ぎこう)に昇る意思を強めた。ごく簡単にいえば、それは皇帝と並ぶ存在になる下準備と受け止められていた。曹操の支持者らが、そうなるよう望んだのだが、荀彧はちがった。

 

「あなたが義兵をあげたのは朝廷を救うためだったはず。君子とは徳をもって人を愛するもので、そのようなことをしてはならない」と反対。曹操を魏公へ押し上げる推進派・董昭(とうしょう)らと真っ向から対立した。

 

 ただ、実際のところ、曹操は北方平定も南方侵攻も事前に荀彧にうかがいを立てていた。とくに北方平定が曹操を大きくしたことは荀彧もわかっていただろうし、単に彼が皇帝になろうとすることに反対したわけではない。荀彧は曹操には(皇帝になるには)まだ徳が足りない、と増長を諫(いさ)めたのではないかと思われる。「赤壁」で負けて南方をとれず、反乱分子が多かったことも「憂い」だったかもしれない。

 

 しかし、曹操はこれに不満を持ったようだ。久々に出てきたかと思えば耳の痛いことをいう、とでも思ったのか。わざわざ献帝に上奏し、荀彧を許都から呼び出して自軍の行事に参加させた。それまでにない形で従軍を強いられた荀彧は、寿春(安徽省淮南市)にて「以憂薨」(憂いをもって没した)と記される。50歳だった。

 

 曹操から食物を贈られたところ、あけてビックリ空の箱。そのために、自らがすでに要済みであることを悟って(服毒して?)死んだというエピソードは『魏氏春秋』という史書にあり、「三国志演義」にも引用された。これがいわば定説になったが、かえって謎を深めている。

 

『献帝春秋』という書は、さらに踏み込んだ一説を述べる。献帝や、その妻・伏皇后(伏寿)が曹操暗殺を企てたことが露見。荀彧はそれを事前に知っていながら黙殺し、曹操に伝えなかった。

 

 曹操は荀彧を問いただし、伏皇后の殺害を命じたが、荀彧は答えに窮し、それを断った。そのために曹操は荀彧を始末したというのである。『三国志』に注釈を入れた裴松之(はいしょうし)は、これを「でたらめな説」と批判しているが、一定の真実味も感じさせる話ではある。

 

 実際、荀彧の死から2年後、曹操は伏皇后を殺害し、自分の娘を献帝に嫁がせ皇后にすえている。216年には魏公から「魏王」への昇進も果たした。後年、荀攸など「魏」の功臣が曹操の廟庭に祀られたが、荀彧は祀られなかった。

 

 なんとも哀しいが『三国志』では相応の序列に置かれ、陳寿や裴松之から絶賛ともいえる扱いを受けているのが救いだろう。

 

人形劇での裏話

 

 余談ながら『人形劇 三国志』では、荀彧の出番は曹操に空箱を贈られて死ぬシーンのみ。曹操の残酷さを強調するためにつくられたような場面で、登場する人形も50歳よりずっと老けた皺だらけの顔だった。

 

 後年、とある荀彧好きのファンの方が「若いころの荀彧を作ってほしい」と、川本喜八郎氏(人形美術家)に要望を出した。このリクエストに応え、作られたのが冒頭の写真の人形である。ごく限定的ながら、氏はファンなどの要望に応える形で人形を製作・販売することがあった。

 

 完成後、その人形はファン本人に譲られたのだが、あまりに出来が良かったからか、川本氏はもう一体作っていた。その2体目の「若荀彧」人形だが、現在は東京渋谷区(ヒカリエ8階)にある川本喜八郎人形ギャラリーに所蔵されている。

 

 また、人形劇の作中に登場した「老荀彧」人形は、飯田市川本喜八郎人形美術館(長野県)に所蔵されている。両館で時折展示されているので、見比べてみるのも一興だろう。

 

KEYWORDS:

過去記事

上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

最新号案内