「空城の計」で名高い勇将・趙雲は、劉備に評価されなかったのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第54回
「三国志演義」には、蜀(しょく)の五虎大将軍(ごこたいしょうぐん)という称号が登場する。その筆頭の関羽と弟分の張飛(ちょうひ)は別格ながら、彼らに並ぶ人気を誇るのが趙雲(ちょううん/?~229)であろう。強いだけでなく策にも長け、それでいて無二の忠臣。知勇兼備を絵に描いたような名将だが、史実における実態はどうであったか。

中国の連環画に描かれる長坂坡(長阪坡)での趙雲の奮戦
趙雲の故郷は北方の冀州(きしゅう)、常山(じょうざん)という小さな郡だ。冀州といえば名族・袁紹(えんしょう)が統治していたところで、多くの人が彼に仕えたが、趙雲は違った。「仁政を布くほうに仕える」との理由から、公孫瓚(こうそんさん)のほうへ義勇兵をつれて参じるという侠気を見せる。
義侠の心を持つ男同士、美しくも土臭い関係
そんな男気のある北国の田舎者同士、劉備や張飛などとも気が合ったのかもしれない。同じく公孫瓚のもとに身を寄せていた彼らと意気投合。劉備は、関羽や張飛と同じように趙雲を遇し、同じ床に休んだと『趙雲別伝』は伝える(以下、ほぼ蜀志「趙雲伝」と同書の記述に従う)。
それから8年後、趙雲は一躍名を高めた。劉備軍が曹操軍に惨敗して逃げ散るなか、世継ぎの劉禅(りゅうぜん)と、その母・甘夫人を救出したのである(208年・長阪の戦い)。劉禅は、のちに「蜀漢」の第2代皇帝になる人物。趙雲の奮戦がなければ歴史は間違いなく変わっていた。
その後、劉備が孫権の妹(孫夫人)を娶(めと)ったとき、彼女の我がままぶりに誰もが手を焼いていた。その横暴を抑えたのも趙雲。孫夫人が劉禅を呉へ連れ帰ろうと企んだのを阻止したのも趙雲であった。
ちなみに関羽や張飛は一軍の将として出世を重ね、こういった奥向きの活躍は見られない。趙雲だけは昔と変わらず劉備のそばにいて、あたかも「忍び」のように、その身辺やその家族を護衛していたように見受けられる。そこからは、わが国の「神君伊賀越え」(1582年)で徳川家康を助けた服部半蔵(はっとりはんぞう)のような姿も想起させる。密命を遂行する特殊部隊長といったところか。
いまひとつ、趙雲の大きな武勇伝がある。それは劉備が蜀を得た後の漢中争奪戦(219年)のときだ。敵中に孤立した黄忠(こうちゅう)を救出するため、趙雲は軽装の数十騎で出撃。そこへ曹操がみずから率いる大軍勢と遭遇してしまう。趙雲は戦っては退き、退いては奇襲をかける。そのさなか、負傷した将軍を敵中から救い出すなどの見事な撤退戦を行なった。少勢での奮戦、長阪のときと少しも変わらぬ戦いぶりだ。
そして趙雲は陣営に戻ると、その門を大きく開け放って待った。それを見た曹操軍は伏兵があると疑って撤退するも、追撃を受けて手痛い打撃を被った。これぞ「演義」では諸葛亮が司馬懿(しばい)をだました戦術として扱われる「空城の計」のモデルである。
劉備は、実はあまり評価していなかったのか?
「正史」でも関羽・張飛・黄忠・馬超(ばちょう)らと列せられる趙雲だが、序列は最後で最も位が低い。正史には五虎将という称号はないが、ほか4名が前後左右の将軍位を授かったのに、趙雲だけは翊軍(よくぐん)将軍という格下の位に甘んじているのだ。
親衛隊長のような役割から、華々しい戦功を立てる機会が少なかったのか、それとも劉備が過大な評価をしなかったのか。先の「空城の計」の際は「子龍は一身すべて肝っ玉なり」と、ちゃんと褒めたたえてはいるが、劉備の人を見る目は確かで、その評価はシビアでもあった。『趙雲別伝』の記述が、実際の活躍より「盛られている」のではないか、とも思えてくる。そういえば、前述の服部半蔵も大名にまでは出世していない。
ただし、それも劉備の存命中の話。5人のなかで最も長命し、諸葛亮の北伐にまで参戦したのは趙雲だけ。彼に命を救われた劉禅や、多くの元勲に先立たれた諸葛亮には評価され、蜀漢の建国後は先の4名と同等の征南将軍にまで昇進した。いわば大器晩成。こうした点が、後世での人気の高まりにつながったと推察される。
また、関羽は傲慢、張飛は粗暴、馬超は自信過剰などと「正史」でも手厳しく批評されているが、趙雲と黄忠は性格上の指摘もなく、果敢・勇猛の武臣として讃えられている。本場中国での人気も極めて高く、ほとんどの男の子が「三国志演義」を読んで最初に憧れをもつ武将といわれている。