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蜀の猛将・魏延の慢心は、劉備の人事に責任があった?

ここからはじめる! 三国志入門 第62回


豪傑の関羽や張飛を筆頭に、個性派ぞろいの劉備軍において、魏延(ぎえん/?~234)もまたアクの強い武将である。劉備の入蜀や、諸葛亮の北伐では主力として活躍した実力派。主に今回は、かの猛将のデビューに着目したい。


 

「人形劇・三国志」に登場した川本喜八郎製作の魏延(川本プロダクション/飯田市川本喜八郎人形美術館蔵)

 魏延は、荊州の義陽(南陽)郡の出身だ。おそらくは劉備が劉表(りゅうひょう)の世話になり、新野(しんや)に駐屯しているときか、赤壁の戦い後に軍に加わった。もっと早くから従っていた可能性もあるが、おそらくは一兵卒から出発した「叩き上げ」だった。

 

 そういう点では関羽や張飛、趙雲などと境遇が似ている。初期劉備軍の面々は叩き上げの塊で、魏延をふくめて殆どが年齢も不詳、まことの実力主義の集団だった。

 

■みなが驚いた、劉備の仰天人事とは?

 

『三国志演義』では劉表配下の武将として登場し、赤壁の戦い後に劉備と再会。主君の韓玄(かんげん)を討ち、首を手土産に投降する。それを見た諸葛亮が憎悪し「こいつには謀反の骨相がある」と言いがかりをつけて一悶着を起こすが、それは創作なのでさておきたい。

 

 魏延が正史で名を上げるのは211年、劉備の蜀入りから。「以部曲隨先主」とあるので、このときもまだ部曲(私兵)を率いる一部隊長にすぎなかった。やはり、早くとも赤壁の戦い以後の加入と思われ、その意味では「演義」の描写にも一定の真実味がある。

 

 劉備軍はそれから8年かけて、蜀を足がかりに北方の漢中攻略に成功する。魏延も、誰々を討ち取ったなどの具体的な描写はないが、その過程でいくつも戦功を立て牙門(がもん)将軍にまで昇進。これは一級の将軍職ではないが、牙旗(将軍旗)の立つ軍門を意味するといわれ、それ以前には趙雲がつとめていた。まさに叩き上げにふわさしい職といえようか。

 

 219年。さて念願かなって漢中王となった劉備は、新たな人事を発表する。漢中は魏との境に位置する重要拠点。衆人はみな、長年の功臣でもある張飛が、その任に就くと思っていた。いってみれば、荊州(江陵)を守る関羽と対になり、蜀の首都・成都とのトライアングルができる。「桃園三兄弟」の設定がない正史でも、張飛こそ、それにふさわしいとの認識を人々は持っていたようだ。

 

 ところが劉備が漢中太守に選んだのは、魏延であった。仰天人事だったようで、人々はみな驚く。一番びっくりしたのは魏延本人だったかもしれない。劉備に抱負を訊かれ「曹操が攻めてくれば全力で防ぎます。曹操の将が十万の軍勢で来たなら呑み込んでやります」と応えた。自信たっぷりな言葉に群臣も感嘆したそうだ。

 

■微妙だった張飛のポジション

 

 ここで気になるのが、張飛のことである。なぜ劉備は長年連れ添ってきた張飛を漢中太守に選ばなかったのか。選ばれなかった張飛は何を思ったのか。「正史」は何も語らないので想像の域を出ないが、まず大前提として、張飛はすでに巴西(はせい)太守という要職にあった。巴西は、重慶市と四川省東部にまたがる広い地域。漢中より少し南、後方拠点ながら漢中や荊州への援軍を送るには良い場所にある。

 

 張飛は、すでにベテランだった。年齢不詳だが、旗挙げ時期から考えて50は超えていただろう。魏延より1020歳は年長だったとみられる。この時期、張飛も武将として円熟味を増し、先の漢中攻防戦では曹操軍の名将・張郃(ちょうこう)と50日以上も戦い、見事にこれを退けている。

 

 この張飛の活躍に対し、劉備も彼を右将軍に任命して応えた。魏延も鎮遠将軍・漢中都督・太守に任じられたが、立場は張飛が上であったとみられる。よって、同じ戦場に張飛が出兵すれば、魏延は張飛の命令を仰ぐ立場にもなったと思われる。魏延の抜擢が強調され、張飛自身も正史に「漢中を守るのは俺」と自負していたように書かれ、立場が弱くなったように感じるが、決してそうではなかったのだ。

 

 しかし、劉備に少しでも忖度があれば、張飛を新たな再前線・漢中太守に選んだかもしれない。これは両者の間に絶対的な信頼関係あったからこその人事だった。劉備は純粋に能力と将来性を考えて魏延を抜擢できたのだ。

 

「お前は刑罰で人を殺し過ぎるし、毎日兵を鞭で叩いている」と、劉備は張飛にいつも注意していたが、結局は改まらなかった。劉備の心中には、パワハラ上司の張飛を最前線に置くのは危険という思いもあっただろう。事実、張飛は部下に寝首をかかれてしまうことからも、それは正しかった。

 

■劉備没後、暴走のはじまり

 

 一方の魏延だが、劉備に抜擢されたことでますます仕事に励み、その期待に応えて懸命に働いたと思われる。だが、彼もまた叩き上げの軍人気質。尊敬できる上司には忠実だが、それがいなくなると途端にトラブルを起こすというタイプの典型だった。

 

 223年に劉備が亡くなると、丞相の諸葛亮(孔明)がその大業を受け継ぎ、魏との戦いに連年挑む。黄忠や趙雲といった猛者たちも次々世を去り、魏延は蜀の筆頭将軍ともいえる地位に躍り出た。

 

「私に1万の兵をください。別動隊として長安を先に落としてみせます。そこで合流しましょう」と、北伐にさいし、魏延は事あるごとに言っては却下された。不満をもった魏延は諸葛亮を「臆病者」呼ばわりするなど、次第に増長していく。諸葛亮も、それを知りながら武勇や将才は認めていたので、重用せざるを得ない。

 

 何より叩き上げの猛者だから、みな魏延が怖い。ただひとり、楊儀(ようぎ)は魏延に遠慮せず反論したという。その楊儀にも魏延はたびたび激昂、刀を抜いて恫喝すると、楊儀は恐ろしくて泣きだす。これを、いつも費禕(ひい)がなだめていたという。まるで子どもの喧嘩だが「どうにか仲良くしてくれないものか」と、心を痛めていたという諸葛亮の苦悩が手に取るようにわかる。

 

 そんな悩みにも神経をすり減らしたカリスマ・諸葛亮が過労死すると、魏延の暴発は止まらなくなるのである。そんな有様をみると、魏延や張飛のような悪太郎をうまく手なずけた劉備の偉大さが分かる。だが、裏を返せば張飛を差し置いて漢中太守に抜擢したことが、魏延を増長・慢心させる一因になってしまったのかもしれない。

 

 そう考えると、一体あの人事は正しかったのかどうか。あるいは劉備がもっと長生きしていれば・・・などと叶わぬ願望や妄想が止まらなくなる。アクの強い男ばかり出てくる「三国志」だが、魏延こそはその典型かもしれない。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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