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蜀の五虎大将軍となった馬超は、なぜ輝きを失ったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第61回


「錦馬超」(きんばちょう)といえば、三国志演義を読んだ方なら、だれもが颯爽(さっそう)たる騎馬武者を思い浮かべることだろう。辺境で鍛えた騎兵たちを従え、曹操を脅かした雄姿は物語に華を添える存在だ。今回はその馬超(ばちょう/176222)に注目し、正史と演義の両面から人物像をさぐってみたい。


曹操との潼関の戦いに臨む馬超(陝西省・勉県の馬超墓の壁画。撮影/上永哲矢)

 馬超の最大の見せ場は、やはり『三国志演義』において曹操に父の馬騰(ばとう)などを殺された復讐戦「潼関(どうかん)の戦い」(211年)となるだろう。渡河を試みる曹操軍に奇襲をかけ、曹操を討ち取る寸前まで追い詰め、護衛の許褚(きょちょ)との一騎打ちを繰り広げる。許褚が真っ裸で馬超と打ち合う場面は、作中のベストバウト候補だ。

 

 また214年には、張魯(ちょうろ)の属将として葭萌関(かぼうかん)に攻め寄せ、劉備軍の張飛とも互角に打ち合う。いくら打ち合っても勝負がつかず、両雄の激戦は篝火をつけてナイターにまでもつれ込む。これも演義屈指の名勝負だ。これらの一騎打ちは創作だが、のちに「五虎大将軍」の一員となる馬超の「演義」における強さは、間違いなく読者の脳髄に刻まれるほどのインパクトがある。

 

■正史に記されるのは、ほとんど不名誉な記録

 

 正史『三国志』や『魏略』ではどうだろうか。歴史書においても、馬超は歴戦の猛者であり、数々の死線をくぐり抜けたであろうことがうかがえる。ただ、足に矢を受けても傷を布で包んで戦い続けたとか、閻行(えんこう)との果し合いに敗れ、危うく討たれかけたなど、残念ながら不名誉な記録が目立つ。

 

 許褚とは、名勝負をしたどころではない。曹操との会見の場で、馬超はあわよくば曹操を斬るつもりでいたが、そばで許褚が目を光らせていたから手出しできなかったとある(魏書「許褚伝」)。馬超にとっては、なんとも具合の悪い描写だ。

 

 そもそも、正史では潼関の戦いも復讐戦ではなく、韓遂(かんすい)と手を組んだ馬超が曹操に反乱を起こしたのが先だった。そもそも父親の馬騰は3年前に曹操領内の鄴(ぎょう)へ赴き、入朝(漢王朝に臣従)したが、馬超はこれに従わず曹操に抗い続ける道を選んだ。そして、馬超は勝てれば良かったのだが、敗れてしまう。このために曹操は馬超への報復として、朝廷にいた馬騰や一族200人を処刑したのだ。

 

また、彼が身を置いていた雍州・涼州の領地の多くもすでに曹操の支配下にあり、馬超の統治力がどれだけ発揮されていたかは分からない。戦いの大義名分を失っていた武装蜂起は、反乱とみなされても仕方なかった。結果として「馬超には血も涙もない」というような風評が立ち、張魯の娘との縁組も破談になる。「身内を愛さない人間が、他人を愛することができましょうか」と、張魯に耳打ちする人がいたのである(『典略』)。

 

 ただ、曹操を討ち取る寸前まで追いつめた、その軍の強さは評価され「韓信(かんしん)、黥布(げいふ)のような武勇」と恐れられた。黄忠(こうちゅう)を「老兵」と見下した関羽も、馬超には興味をもって、諸葛亮に「彼の人物・才能は誰に匹敵するか」と尋ねたほどだ。

 

■人生の転機か、劉備への投降

 

 214年、馬超は誘いに応じて劉備に降る。馬超の軍勢が成都(せいと)城下に来たと聞き、劉璋(りゅうしょう)は震えおののいて成都を劉備に明け渡した。悪名と武名の高さで、劉備入蜀の功労者になったことは間違いない。しかし馬超はこの時、張魯を裏切って妻子を置き去りにしてきたので、妻は張魯の部下が引き取り、子の馬秋は処刑されている。

 

 劉備は馬超に期待し、のちに驃騎(ひょうき)将軍・涼州牧(ぼく)に任命するなど最高の評価をしている。だが馬超が大軍を破ったとか、誰かを討ち取ったなどの話はない。漢中攻略戦でも、夏侯淵を斬った黄忠に見せ場を奪われた。敵のときは恐ろしいが、味方になると頼りない……なんだか、昔の少年漫画のような展開を思い起こす。その後もパッとしないまま、222年に劉備より早く47歳で病死してしまう。

 

「演義」では、史実より34年ばかり長命している。諸葛亮から陽平関の守備を任される場面があるが、活躍の少なさを嘆いた羅貫中(らかんちゅう)が水増ししたのではないか、と思えてしまう。しかし、やっぱり活躍しないのは同じ。諸葛亮が「南征から帰ってきたら馬超が病死した」と告げるだけで、最期の場面もない。最初の北伐で墓詣りをする場面(三国志演義・第9192回)がある程度だ。

 

■晩年の人となりを示す、わずかなエピソード

 

 その人となりも、ブレまくりで掴みどころがないが、晩年のエピソードに次のようなものがある。彭羕(ほうよう)という政治家は、最初は劉備に重用されていたが、次第に野心をあらわしたため、辺境へ左遷されることになった。彭羕は出立の前に馬超の屋敷に立ち寄る。酒でも飲んだのか、熱が入って劉備の悪口をいい、「君が外、私が内を受け持ったら、天下は思いのままになるのにな」と、つい口をすべらせた。

 

 これに対し、馬超は口をつぐんだ。流浪のすえに蜀に身を置いた彼は、常に自分の立場を危ぶんでいたそうだ。なのに、こんなヤバい話をされては……。馬超は彭羕が帰ると、ただちにこの一件を告発。彭羕は逮捕され獄につながれた(蜀志「彭羕伝」)。

 

 そのほかにも、馬超は劉備のことを「玄徳」と、気安く字(あざな)で呼び捨てにしたので、腹を立てた関羽が馬超を殺そうとした(『山陽公載記』)などというエピソードも伝わる。注釈者の裴松之(はいしょうし)は、「ありえない話」と一蹴しているが、嘘か誠か。こんな噂が出るほどだから、蜀へ降ってからの馬超は、常に落ち着かず、自分を見失ったようになったのかもしれない。

 

 父や妻子を捨てた罪悪感。後ろ指を指され、心を許せる人も少ない。常に身辺を警戒して心休まらず、そのストレスから心身をすり減らしていった……これは単なる妄想だが「演義」の錦馬超の華々しさからは、ほど遠い晩年の姿が想像されてならないのである。

 

 余談ながら、やはり特徴が掴みづらいためか、馬超はテレビゲームでも冷遇されることがあった。「天地を喰らう2・赤壁の戦い」(1992年/カプコン)は、説明書などに「五虎大将軍 武勇天下に冠たり!」と示されているが、選べる主人公は関羽・張飛・趙雲・黄忠・魏延(ぎえん)の5名。魏延のほうが格闘キャラにしやすかったのは分かるが、存在すら消された馬超、なんとも不憫でならなかった。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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