曹操の副将軍・夏侯惇は戦績がサッパリなのに、なぜ優遇されたのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第64回
劉備に関羽や張飛という兄弟のような忠臣が居たように、ライバルの曹操にも忠臣たちがいた。そのひとりが夏侯惇(かこうとん/?~220)だ。弟分の夏侯淵(えん)とともに生涯をかけて曹操を助けた功将の実像、いかなるものであったのか。

呂布軍との戦いで矢を顔面に受ける夏侯惇。三国志演義連環画より
「血は水よりも濃い」というが、旗揚げ間もない曹操には、頼れる血縁部将が4人いた。そのなかで最も曹操と縁が深かったとされるのが夏侯惇だ。他の3名(夏侯淵・曹仁・曹洪)より多くの権限を与えられ、もっとも重く用いられた男。その絆は、桃園三兄弟と呼ばれる劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)のそれに少しも引けを取らなかった。
なにしろ曹操(そうそう)の父(曹嵩/そうすう)は、もともと夏侯家の出身で、曹家の養子に入ってから「曹」姓を名乗った人。曹嵩は夏侯惇の父親と兄弟同士で、つまり曹操と夏侯惇はいとこ同士だった。幼いころから実の兄弟のように育ったのかもしれない。
夏侯惇といえば、小説『三国志演義』では「隻眼」がトレードマークの猛将で、関羽とも互角に打ち合うほどの豪勇の士として描かれる。あたかも常に曹操のそばにあって各地を転戦した将のようにイメージされがちだ。しかし、正史の記述を見るに、どうやら実像はだいぶ違ったらしい。
■呂布にあえなく捕まって人質にされる
夏侯惇は、初平元年(190)に旗揚げしたばかりの曹操軍の副将となり、早くも別働隊の指揮を任されている。半ば独立した存在として軍勢を率いており、彼自身が最前線に立って戦う機会は少なかったとみられる。しかし、曹操軍がまだ小勢力だったころは彼みずから武器を振るう機会もあった。
西暦194年、曹操が徐州(じょしゅう)へ遠征。夏侯惇は、その本拠地の兗州(えんしゅう)の中心地、濮陽(ぼくよう)を守った。そこで反乱がおき、呂布(りょふ)軍が攻めて寄せる。夏侯惇は出撃したが、空っぽになった濮陽が呂布に奪われて敗北する。
逃げ場を失った夏侯惇は、あえなく捕まってしまった。呂布軍の策にハマったのである。よほど陳宮(ちんきゅう/呂布の参謀)の戦略が冴えていたか、それとも夏侯惇がドジを踏んだというべきか。大将なのに人質となった夏侯惇。ほどなく韓浩(かんこう)の機転で救い出されて事なきをえたが、危うく殺される寸前だった。
その後、曹操が呂布討伐に本腰を入れると、夏侯惇も従軍。リベンジを期して臨んだ戦闘だったが、左眼に矢を受けてしまう。このとき「父母からもらったもの、もったいなや!」と叫び、抜け出た目玉を喰らって戦闘を続けるのは『三国志演義』の創作。実際は重傷で戦う余裕などなく、戦線離脱したとみられる。
その後も夏侯惇は戦場に出たが、戦績は振るわない。呂布配下の武将・高順(こうじゅん)に敗れており、劉備にも博望坡(はくぼうは)で完敗(先主伝)。李典(りてん)の諫めを無視して追撃し、案の定、伏兵にやられた。『三国志演義』においては、諸葛亮のデビュー戦が、この「博望坡の戦い」である。ここで夏侯惇は負け役をさせられているが、実はあながち間違いではないのだ。
■官渡の戦い以後、前線に出なくなる
このように、彼みずから指揮する戦いはほとんどが不覚をとっている。魏将の活躍が多い「魏書」の本人の伝(夏侯惇伝)に、その不名誉が隠さず書かれているのは珍しい。
以降、夏侯惇が前線に……というより、表舞台に出ることはなくなった。「官渡の戦い」や「赤壁の戦い」でも、夏侯惇は留守居役として後方支援に徹している。彼は河南(かなん/漢の都・洛陽を中心とした黄河南方の領地)の長官(尹)を拝命し、政治に本腰を入れることになったからだ。
すなわち旧都周辺を任せられるのは夏侯惇以外にない、と曹操が判断したと思われる。ちなみに荀彧(じゅんいく)は、許都の守りを任され、夏侯惇もこれと同様の役割だった。将才より行政能力が評価されてのこととみられる。
韓皓や典韋(てんい)を抜擢して曹操の配下に取り立て、曹操と不仲な人物の仲介役をつとめたりと、裏方的な活躍には光るものがあった。堤防工事では、みずから土を運んで兵卒を指揮し、陣中に先生を呼んで勉強させ、財貨を部下に分け与えて蓄財はしない。上司としては好かれるタイプで、そのあたりが将としては平凡でも要職に居続けられた一因といえよう。
しかも夏侯惇は「法令に拘束されない」という権限まで与えられていた。法を順守した政権下では異例に過ぎるが、そのことからも曹操は、彼を自分と同等に扱っていたことが分かる。また以後も曹操は夏侯惇に重職を与える。216年、呉との国境・揚州方面に展開する全二十六軍の総司令官に任じたのである。実質、名誉職に近いが、あの張遼(ちょうりょう)なども夏侯惇の部下という立場だったのだ。
■桃園結義を超えた、曹操と夏侯惇の絆
魏王に即位した曹操は、夏侯惇に魏の官位を与えずにいた。夏侯惇を同じ漢の臣という立場のままにして、自分に臣下の礼をとらせないようにしたのだ。異常とも思える厚遇に、夏侯惇は自分も魏の官位につけてほしい、と曹操に望んだという。魏の前将軍の位についたのは死去の前年、219年のことだった。
219年、関羽との戦いに臨んだ曹操は、荊州の後方支援にあたるため、摩陂(まは)に駐軍。ここは夏侯惇の領地であり、曹操は夏侯惇を呼びつけている。曹操はよほど嬉しかったのか、夏侯惇を車に同乗させて出歩き、寝所への自由な出入りまで許した。
この「特権」は同じ一族の曹仁(そうじん)、曹洪(そうこう)、夏侯淵には与えられていない。彼らは歳を経ても陣頭指揮をとっており、それゆえに夏侯淵は戦死していた。この扱いの差。単なる「身内びいき」に留まらないぐらいの曹操の特別な意図を感じるし、「唯才是挙」(ゆいざいぜきょ)の方針も彼は例外だったと思える。
220年、年明けに曹操が病死した。死に場所は、許都でも故郷の譙(しょう)でもない。夏侯惇の領地であり、若き日に過ごした洛陽だった。曹操を看取ったと思われる夏侯惇も、3ヵ月後に後を追うように他界して曹操高陵の近くに葬られたという。
これと対照的なのが劉備である。彼は兄弟同然の関羽や張飛と一緒に死ねなかった。「同年同月同日に死せん」という桃園結義(演義)は守れなかったのだ。いっぽう、曹操と夏侯惇は同じ年、同じ場所で生涯を終えた。君臣や兄弟という関係を超えるほどの絆を体現したのだ。
不思議なのは『三国志演義』での扱いだ。夏侯惇は曹操のもとを去った関羽を追いかけ、堂々たる一騎打ちを演じる。軍神・関羽と互角に打ち合えた魏将は、晩年の龐徳(ほうとく)、徐晃(じょこう)ぐらいである。
呂布軍に捕まった一件は省略され、官渡や赤壁でも目立つほどの活躍はないが、しっかり顔を出す。漢中で曹操から「鶏肋」(けいろく)の軍令を仰せつかるのも彼の役目である。史実から離れた「演義」での勇将ぶり。おそらく隻眼という特徴を持つことが敵将として扱いやすかったからと思えるが、曹操と夏侯惇の意趣返しのようにも思えてもくる。