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関羽を倒したばかりに……人形劇「三国志」で極悪人にされた呉の名将・呂蒙の悲劇とは?

ここからはじめる! 三国志入門 第68回


関羽(かんう)討伐で知られる呂蒙(りょもう)は、「三国志」屈指の名将として描かれる。しかし、NHKで放送された『人形劇 三国志』では、随分と扱いが異なる。それはどういった理由によるのだろうか?


 

「男子三日」の逸話で知られる呂蒙

『人形劇 三国志』に登場する呂蒙。見事な悪役顔をしている。川本プロダクション提供/飯田市川本喜八郎人形美術館所蔵

「男子三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」という言葉をご存じだろうか。これは武勇一辺倒で「呉下の阿蒙」(おバカな蒙ちゃん)と呼ばれていた呂蒙が、猛勉強の末に魯粛(ろしゅく)を言い負かすほどの学識を身につけて言った「士たるもの別れて三日もすれば、さらに刮目して相待つべし」(士別三日、即更刮目相待/江表伝)がもとになった慣用句だ。

 

 呂蒙といえば、上記のエピソードばかりが有名だが、実は「虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず」という故事成語を発した人でもある。彼は1516歳のころ、ひそかに義兄の後を付けていって山賊討伐に参加したので母親に叱られた。

 

「なんて危ないことをするの」という母親に対し「虎の穴に入らなければ、虎の子は捕まえられません。私は戦いで手柄を立てます」と言い放ったのだ。

 

 それ以来、彼は常に義兄の軍に付き従うが、周りからは「お前みたいなガキに何ができる」などといつも馬鹿にされていた。ある日、ついにキレた呂蒙は刀でその男を滅多切りにしたという。血の気の多い武闘派だったようだ。

 

 義兄の主・孫策(そんさく)は「血気に逸って人を殺すのは良くないが、その気迫は捨てがたい」と、呂蒙を側近に取り立てた。この出会いが、彼を大きく飛躍させ歴史を変えることとなる。そして前述のとおり文武両道の名将に育った呂蒙は、病死した魯粛の後任として荊州(けいしゅう)の軍司令の座につく。

 

名将・関羽を討伐した比類なき英傑だった

 

 219年、関羽が遠征中の江陵(こうりょう)に、音もなく忍び寄ってこれを占拠。そのために関羽は曹操・孫権両軍に挟み撃ちされる格好となり、退路を断たれて敗死する。呂蒙こそは曹操軍の徐晃(じょこう)と並ぶ関羽討伐の殊勲者で、主君の孫権も彼を褒め称えること尋常ではなかった。

 

 だが、荊州制圧と関羽打倒は彼の身体に相当な負荷がかかっていたのかもしれない。同年中に病魔に襲われ42歳にて急逝してしまう。孫権は彼の病状を、壁に開けた覗き穴から観察するほど心配し、死んだときは深く悲しんだと、正史の『呂蒙伝』に書いてある。

 

 しかし、後世の蜀漢びいきの風潮を受けた『三国志演義』で、呂蒙の死は大幅に改変される。関羽が孫権に斬首されたのち、呂蒙は酒宴の席でその霊にとりつかれ、あろうことか「碧眼(へきがん)の小児、紫髯(しぜん)の鼠輩(そはい)!」と孫権をののしった挙句、身体中から血を流して絶息する。

 

 その死にざまは、何度も孔明に騙されて矢傷を開いて憤死する周瑜(しゅうゆ)以上といえるかもしれない。孟達(もうたつ)の矢を頭に受けて死ぬ徐晃の最期は、まだ良い方で「関羽の死」の責任を一身に負わされたような感じだ。「三国志演義被害者の会」の代表格ともいえる呂蒙は、これに留まらない。さらなる惨い扱いを、あの超有名な作品で受けている。そう『人形劇 三国志』である。

 

これでもか、というぐらいの悪人に変貌

 

 NHKで放送された『人形劇 三国志』(198284)は、劉備(りゅうび)や諸葛亮(しょかつりょう)を主役としており、彼らに味方する人物は「善」、敵対する人物はおおむね「悪」という具合に、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)が貫かれている。人形劇として「子供が観てもわかるように」というコンセプトから、コミカルな描写が多かった。たとえば序盤の董卓(とうたく)や李儒(りじゅ)は、悪代官と越後屋の商人といった悪人になっている。

 

 その程度はまだ可愛いもので、最大の悪役にされたのが他ならぬ呂蒙である。本作の第5859回で描かれる彼は、荊州の民を惨殺し、それを止めることを条件に関羽を投降させる。ところが丸腰になった関羽を、人質にとった民もろともだまし討ちにしてしまう。

 

「殺すか殺されるかの世の中に、約束を信じる馬鹿がおるか。覚悟せい、関羽!」と嘲笑して関羽を刺し「呂蒙、わしは今日まで人を呪ったことはない。だが、貴様だけは許さん」と、死にゆく関羽に恨み言をいわれる。もう極悪人を通り越して、なにか別の存在のようでもある。

 

 そして最期は「かちかち山」のタヌキのような報いを受ける・・・という、救いがたい人になっている。なぜか、呂蒙に知恵を授ける役回りの陸遜(りくそん)は脚本上で優遇され、呂蒙のように貶められていない。

 

 その外見も、呉の重鎮というべき立派な将軍には見えない。人形作家の川本喜八郎(かわもときはちろう)氏は、呂蒙は先に脚本を読んでから造ったと語っていた。もちろん人形としては非常に味があるが、内心は複雑な思いもあったのではないかと推察する。

 

 間違いなく『人形劇 三国志』は不朽の名作で、筆者も愛してやまない存在だ。しかし、この呂蒙の扱いには呉のファンでなくとも憤りを覚える人も多いと見え、たびたび話題にのぼる。「あの回だけは……」という声すら聞く。

 

 しかし、それもこれも含めての「作品」である。制作当時の三国志事情にも思いをめぐらし、「ちょっと、やりすぎだよね」と、そのアレンジ具合を楽しむぐらいの達観をもって鑑賞してほしいと願う。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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