曹操の「君と余だ」の言葉に、劉備が「箸」を落としたのは本当だった?
ここからはじめる! 三国志入門 第66回
「今、天下に英雄といえば、御身とこの曹操しかおらんな」
西暦199年ごろ、曹操が酒を飲みながらそう言い、驚いた劉備が持っていた箸(はし)を落とす場面だ。『三国志演義』では、2人は梅の実を肴に飲んで天下の英雄について語ることから「青梅(せいばい)、酒を煮て英雄を論ず」として知られる。今回は、この場面に現れる「箸」に着目したい。

「青梅、酒を煮て英雄を論ず」の名場面。箸を持っている劉備。(三国志演義連環画より)
結論からいえば、この場面は正史『三国志』先主伝にも記されているため、本当にあった出来事なのだろう。呂布討伐後、献帝のおわす許都に留まっていた劉備は曹操から「サシで飲もう」と誘われ席をともにした。このとき都合よく雷が轟いたというのは『華陽国志』からの引用である。
ただ、落としたのは箸ではなかったかもしれない。正史原文を見ると実は「先主方食、失匕箸」(匕箸を落とした)とあるからだ。匕箸(ひちゃく)とは匕(さじ=匙)、つまりスプーンと箸のことで、つまり食事道具一式を取り落としたという意味になろうか。
そもそも、箸や匙はいつから使われたのか。考古学的な見方では紀元前1000年ごろからで、3000年以上の歴史がある。河南省の殷(いん/紀元前17世紀~紀元前11世紀)の遺跡から青銅製のものが出土した。文献としては『史記』で、酒池肉林で有名な殷の紂王(ちゅうおう)が象牙の箸を使うという逸話が出てくる。木製もあったかもしれないが、腐食しやすいため、遺跡からは滅多に出土しない。
ただ、当初は祭祀や儀式の場で供え物を大皿から取り分け、神前に置くための「菜箸」のように使われたようだ。二本の棒状の箸ではなく、真ん中で曲げるピンセット状になった「折箸」も春秋戦国時代の遺跡から出ている。
前漢時代に編まれた『礼記』(らいき)によると、食事は手食(手づかみ)が普通で、箸はおかずを取ったり、羹(あつもの=スープ)の具をつまむときに使ったという。小麦粉を使った蒸しパン(饅頭)や麺、粥状の主食(穀物)は手づかみと匙の併用だったのだ。
同じ『三国志』に興味深い記述がある。ひとつは「董卓伝」である。董卓(とうたく)が、宴席に引き出した捕虜の舌や手足を切り、大鍋で煮るなどして処刑すると、呼ばれた人々は戦慄して匕箸を取り落としたとある。こちらも「匕箸」とあり、箸を持つ人も匙を持つ人もいたとわかる。
そしてもうひとつが「魏志」の東夷伝。つまり「魏志倭人伝」の一節である。ここに「倭人は食べ物を高坏(たかつき)に盛って手で食す」とある。三国時代の漢人と違う文化圏だ、と暗に伝えているのだろう。
■劉備も箸と匙を使い分けていた?
なお、劉備の出身地があった涿(たく)州の後漢時代の墓地からは、銅製の食膳や碗のほか箸も出ている。長さは20センチぐらいで、現代とそれほど変わらない。中国でも紀元前までは手食(紀元前)が基本だったが、それから匙や箸が用いられた。よって、劉備も箸と匙を使い分けていたと思われ、両方とも取り落としてしまった可能性も考えられよう。
中国で飯を箸で食べるようになったのは明代(1368~1661)からといわれる。元(モンゴル)の攻勢に押された漢民族が江南へ逃れ、日本と似た粘り気のある米を食べるのに箸を使うようになり、再び華北の地に戻って箸食文化が大陸中に定着したわけである。現在も中国と韓国などアジア諸国では、箸と匙は食事の時にセットで出され、汁物には匙が使われる。
日本で箸が定着したのは7世紀ごろで、室町時代ごろまでは匙が使われたようだが、次第に箸だけになり、汁を飲むときもお椀に直接口をつける文化ができた。これは実は世界的に珍しいものだ。
また、古代中国の戦国時代あたりまでは肉刺しに「叉子」というものがあったが廃れた。これは、いわゆる「フォーク」の原型だが、これが17世紀以降のヨーロッパで使われ出して今にいたる。織田信長と謁見したルイス・フロイスの記録にもあるとおり、それ以前のヨーロッパ人は、ずっと「手食」だったのだ。
ただ、今も東南アジア、中近東、アフリカ、オセアニアなど手食文化の国は約4割もある。古代中国を起源とする箸食中心の国より多いぐらいで、しっかりとした手食マナーもある。このあたりも歴史の奥ゆかしさといえよう。