曹操の頭痛をやわらげた名医の華佗は、なぜ身を滅ぼしたのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第70回
華佗(かだ)といえば、三国志の時代に諸国の病人を治癒させた伝説的な名医。麻酔を使った開腹手術や鍼(はり)治療など、正史に残る医学知識と技術は、3世紀のものとは思えぬ驚くべきものばかりだ。正月に飲む「お屠蘇(とそ)」や、「五禽戯」(ごきんぎ)という体操の発案者ともいわれる。今回は、そのスーパー・ドクターが曹操(そうそう)に仕えながら、最終的には身を滅ぼした経緯をお伝えしたい。
80年代の映画に描かれた華佗と曹操の関係

「三国志外伝 曹操と華佗」(日本版VHS)のパッケージ画
『三国志外伝 曹操と華佗』という映画がある。今から40年も前の1983年、中国で制作・公開された作品(原題:華佗与曹操/黄祖模監督)だ。諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)を主人公にした長編ドラマや、映画「レッドクリフ」などより遥か前で、知る限り本場でも最初期の映像作品かと思う。日本での劇場公開はなくビデオで販売されただけである。
作中で描かれるのは、袁紹(えんしょう)との戦いのさなか、頭痛に倒れた曹操が、華佗の治療を受けて快癒し、彼を軍医にするというものだ。
しかし、次第に両者は対立を深め、華佗は妻の病気を理由に帰郷。その後、強制的に呼び戻されるが華佗は心を開かない。怒った曹操はついに華佗を処刑する。そんな折、曹操の幼子・曹沖(そうちゅう)が病にかかり、名医の治療が必要になった。
曹操は処刑を取りやめようとするが、すでに遅しで斬首された後だった。「息子を殺したのはわしのせいだ!」と絶叫して終幕、という内容である。
賢明な読者の方はお分かりかもしれないが、これは、ほぼ正史『三国志』華佗伝の流れどおりの筋書き。「演義」の色はほとんどなく、関羽も諸葛亮も出ない。鑑賞して驚くと同時に、えらいマニアックな映画が80年代に存在したものだなと感動(?)したものである。
曹操に頼られながらも軽んじられた?
史実で華佗が曹操に召し出された正確な時期は不明だが、おそらく官渡(かんと)の戦いの後から赤壁(せきへき)の戦いの前(200~208年)かとみられる。曹操は実際に頭痛持ちだったようだが、華佗の鍼治療を受けたところ、症状が治まり、以来侍医として傍に置くようになる。
ちなみに曹操と華佗は同郷(沛国譙県=安徽省)出身。華佗の年齢は不明だが、没したときはかなり高齢だったといわれる。
しかし、華佗はあまり厚遇されなかった。当時、医術は「方技(ほうぎ)」とも呼ばれ、不可思議な術を使うマジシャンのように見られていた。占い師や呪術師などと同じで社会的地位が低く、人材コレクターの曹操ですら、その見方を最後まで変えなかった。記録を見る限り、むしろ軽んじていたようだ。
それより何より、華佗にはドクターとしての強いこだわりがあった。彼は自分の医術を曹操やその周囲だけにとどめず、あらゆる病人に駆使したいと思っていた節がある。侍医で終わりたくなかった彼は妻の病気を理由に故郷へ帰った。
曹操は再三使いを送り、ついに強制的に連れ戻させるが、妻の病気が偽りだったことを知ると、彼を牢に入れ連日拷問を受けさせた。
衰弱し、わが身の運命を悟った華佗は、獄吏に自分の医術を記した書を託そうとする。だが獄吏は罰せられることを恐れて受け取らない。華佗はついに書物を焼き捨て、世を去ったのである。
「お前のような輩は、いくらでもいるだろう」と強気だった曹操だが、自身も220年に66歳で亡くなるまで頭痛に悩まされたという。幼い息子にも先立たれ「華佗を殺さずにおけば・・・」などと悔やむも後の祭りであった。
曹操に召し出される以前、華佗は多くの患者を治療しており、その症例は正史および引用史料に21例ある。患者の中には陳登(ちんとう)をはじめ、李通(りつう)の妻など、著名な人物もいた。いずれも「ドクター華佗」にしか治せなかったであろう難しい症例である。なかには病が再発して、華佗の再診を受けられずに助からなかった人もいる。
もし、劉備が諸葛亮に接したような厚遇をしていれば、曹操自身の寿命もいくらかは延びたかもしれない。また華佗の麻酔薬(麻沸散/まふつさん)の処方、数々の医術の奥義が後世へ伝わっていたかもしれず、惜しいように思う。
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