諸葛孔明が「まんじゅう」を発明した逸話は、『三国志演義』のオリジナルではなかった?
ここからはじめる! 三国志入門 第75回
饅頭(まんじゅう)を発明したのは諸葛孔明(しょかつこうめい)――。小説『三国志演義』に描写される南蛮(なんばん)征伐の場面から、そう思われている方は少なくないと思う。しかし、「演義」は明の時代の小説。孔明の活躍も相当な誇張が含まれていることでも知られる。今回は、その「孔明と饅頭」の関係の信ぴょう性や、饅頭という食べ物の歴史を深掘りする。
「発明家」としての顔も確かな諸葛亮

濾水の岸辺で「饅頭」を捧げ、祈祷する孔明 「新刊校正古本大字音釈 三国志通俗演義(国立公文書館所蔵)より」
『三国志』の主役に諸葛亮(孔明/181~234)を挙げる人は多い。一般に知られる「天才軍師」としての姿より、正史『三国志』(諸葛亮伝など)を見る限り、彼は実直な政治家にして堅実性を重視する軍略家だった。むしろ、その愚直なまでの生きざまが後世の人の胸を打つ。
一方で、連発式の弩(いしゆみ)、木牛(もくぎゅう)・流馬(りゅうば)という運搬器具を開発。兵法「八陣の図」を書き残したことも、しっかりと正史に刻まれている。「演義」での超人的な活躍もそれらが下敷きになっているわけだが「南蛮征伐」の章で、饅頭(まんとう/まんじゅう)まで発明してしまう場面がある。
西暦225年、孔明は南蛮を平定し、成都へ引きあげるときに瀘水(ろすい)という河にさしかかる。すると、河が荒れ狂っていて渡れない。「この河の荒神を鎮めるには49人分の頭を捧げる風習がある」と土地の住民がいう。
孔明は「みだりに人を犠牲にしてはならない」といい、料理人を呼んで小麦粉をこねて人の頭に見立てて作らせ、中に牛や羊の肉を詰めて供物にするよう指示した。これを「饅頭」と名付け、その夜、儀式を行なって供物を河に投げ込む。すると氾濫は鎮まり、軍は無事に河を渡れた、というのが『三国志演義』第91回の展開である。
では、この「孔明による饅頭発明」は『三国志演義』のオリジナルなのだろうか。調べてみると、どうもそうではないらしい。
16世紀に出された古い「演義」の刊行本には「傳至今日、出『事物紀原』」との出典表記がある。『事物紀原』(じぶつきげん)とは10~12世紀、北宋の高承(こうしょう)が編纂した百科事典のような書だ。
それによると孔明が饅頭をつくった理由を「蛮族は邪術を多く使う。人頭を捧げれば神兵の助けが得られ、討伐は成功する」とある。河に饅頭を沈めたエピソードは書かれず、その部分は「演義」で新たに書き加えられたものかもしれない。
だが、その高承は「小説に云う」とも書いているほか、文献上の起源を、西晋時代の束皙(そくせき/?~300)が著した『餅賦』(べいふ)にあると紹介する。その『餅賦』には「春は陰陽が交わる時期であり、寒気は消え、『温』はまだ『熱』には至らず。この時期に宴を楽しむ。すなわち曼头=饅頭(を食す)が宜しい」とある。
また高承は「西晋の束皙が書いているのだから饅頭は武侯(諸葛亮)の発明らしい」という具合に推測している。『餅賦』は食物を紹介した書であるため、束皙がいう「曼头」は「饅頭」と理解すれば良いだろう。書のタイトルにもある「餅」は、日本人は米の餅(もち)を想像するが、中国の「餅」(びん/へい)は小麦粉から作るパンや麺のことだ。
中華(中原)において小麦の粉食・麺食は米食よりも早くから発達し、今でいう「ナン」(インド料理)のような平たいものが食べられていた。これを焼いたものが「焼餅」(シャオ・ビン)、蒸したものが「蒸餅」(ヂァン・ビン)、すなわち中華饅頭である。
文献を探ると、古くは戦国時代や前漢の時代には「餅」が登場するが、後漢や三国時代の歴史書にも出てくる。三国志の人物では、呉へ使いに行った蜀の使者・費禕(ひい)が餅を食べる場面がある。
費禕は呉の餅がよほどうまかったのか、その場で筆を求めて「麦の賦(ふ)」を作った。同席していた諸葛恪(しょかつかく/孔明の甥)も筆を求めて「磨(うす)の賦」を作り、ともに「立派な作品だ」と孫権から称賛されたとある(『諸葛恪伝』)。
『続漢書』(4世紀の書)には、霊帝(れいてい)が胡餅(こべい)を好んだので、それにならって京師(都)ではみなが胡餅を食べるようになったとある(靈帝好胡餅,京師皆食胡餅)。
また王粲(おうさん)が著した『英雄記』には、呂布(りょふ)が数十石の酒、1万枚の胡餅と牛肉をふるまい、客人をもてなした(又は振舞われた)と書かれている(提數十石酒,作萬枚胡餅,先持勞客)。
胡餅は、北方民族が好んだ食べ物である。中国北部の陝西省(せんせいしょう)には、今も肉夾饃(ロージャーモー)という餅の間に焼肉を挟んだ、ハンバーガーに似た名物料理がある。霊帝も呂布も、その類のものを食べていたかもしれないと思えば、なにか感慨深い。
やや「饅頭」から離れたが、つまりは後漢や三国時代に、蒸餅=饅頭は流行食として広まりつつあった。それも賓客に出したり、祭事の供え物に使われていた。とくに、腹いっぱい食えれば御の字という状況下であれば、饅頭は相応の高級品としてとらえられたであろう。

饅頭(まんとう)は中国全土の露店などで、大体1個1元(20円)程度で売られている。(撮影:上永哲矢)
中国の食文化は南米北麦(ナンミィベイマイ)といい、南部は米食が主体、中国の北部では麺や饅頭(まんとう)など麦の粉食が主食である。それは今も変わっていないが、もちろん南方にも饅頭を好む人はいるし、実際に売られている。
先の孔明由来の逸話から、南蛮人の头(頭部)、すなわち「蛮頭」が「饅頭」に転じたものという解釈もある。後に食用となり、食べ物を意味する「饅」に転じたものだろう。
今の中国では中身に具が何も入っていないものを饅頭(まんとう)、あるいは花巻(ホアジュアン/はなまき)という。具入りの肉まんなどは「包子」(パオズ)と呼んで区別される。ただ、現在でも蘇州や杭州など地方により、具の有無にかかわらず饅頭と呼ぶところもある。
日本で饅頭といえば、小豆の餡(あん)が入った菓子をイメージする人が多いだろう。肉入りの中華饅頭は「肉まん」「豚まん」と呼ばれるが、どちらも中国の饅頭が起源である。
日本で広く食べられるようになったのは鎌倉時代から南北朝時代(13~14世紀)。当時は主に仏教(肉食禁忌)の影響からか、茶菓子として小豆餡を詰めた饅頭が好まれ定着したようだ。形や中身は違えど紅白饅頭などのように祝事に配ったり、行事で供えたりする用途は今にも受け継がれている。
饅頭を諸葛亮が発明したという話自体は、後世の「孔明人気」が生んだフィクションであろう。ただ、出陣にあたり饅頭を供えものとしたのは、時代背景的には無理のない話と考えても良い。それは孔明だけに限った話ではないが、そう結論づけておこう。
もう春である。束皙が奨めるとおり、うららかな陽気の日に饅頭を頬張ったり、肉まんが回復アイテムとして登場する『真・三國無双』シリーズに興じてみたりするのも良いだろう。