×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

姉川の戦い後の徳川家康とその周囲の状況はいかなるものだったのだろうか?

徳川家康の「真実」⑤


織田信長と徳川家康が連合し、朝倉・浅井軍を破った姉川の戦い。そもそも徳川家康はこの時期、領国である三河を武田信玄などにおびやかされていたはずだが、その留守はいったいどうなっていたのか、そして姉川の戦いを終えた徳川家康とその周囲の状況はいかなるものだったのだろうか?


 

■信玄は上杉と結んだ北条氏への攻撃で三河まで手が回らなかった⁉

 

上杉謙信
家康の領国をおびやかす武田氏、北条氏にとって、警戒が必要だった越後の謙信。微妙なパワーバランスが家康の姉川合戦出陣も可能したという見方もできる。

 

 合戦後、領国に帰った家康は、9月中旬に浜松城へと移った。家康が領国を留守にしている時に、武田方が攻め込んでくることはなかった。武田氏は後北条氏という敵を抱えており、おいそれと家康領国に出兵することなどできなかった。しかも、相模の後北条氏は、越後の上杉氏と同盟を結んでいた(1569年6月)。この「越相同盟」は、元亀元年(1570)4月に、北条氏康(ほうじょううじやす)の子息・三郎(後の上杉景虎/うえすぎかげとら)が上杉謙信(うえすぎけんしん)の養子となるため越後に送られたことにより、より強固なものとなっていた。

 

 後に(1572年10月)、信玄は家康領国に侵入することになるが、それは後北条氏との同盟が成立してからであった。家康が領国を留守にして、西国に出兵することができたのも、こうした状況であったからだろう。

 

 とは言え、家康も武田氏への備えを何もしなかったわけではない。越後の上杉謙信との同盟関係の構築も、武田氏対策の一つであろう。家康と越後の上杉氏との交渉は、永禄12年(1569)2月頃から既に始まっていた。家康が懸川城に籠る今川氏真を攻めていた頃のことである。

 

 その頃から、家康は何れは信玄と手切れすることを視野に入れていたと思われる。だが、上杉謙信と武田信玄は、永禄12年7月に同盟(甲越同盟/こうえつどうめい)を結んだので、上杉と徳川の交渉はストップしていた。しかし、甲越同盟も、元亀元年7月には崩れる。それを受けて、徳川と上杉氏との交渉が再開、加速する。同年8月、家康は使者を謙信のもとに遣わし、懇意にしたい旨と、武田氏との断交を伝えるのだ。上杉氏からも色良い返事が同月下旬に到来した。そして、同年10月、家康は起請文を謙信に送付。「信玄と手切れ」することを誓い「越三同盟」が成立するのであった。

 

監修・文/濱田浩一郎

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

歴史人2023年7月号

縄文と弥生

最新研究でここまでわかった! 解き明かされていく古代の歴史