徳川家康が生まれたころの松平家は今川と織田に挟まれた弱小勢力だったのか⁉
徳川家康の「真実」④
徳川家康を生んだ松平家はもともと三河の一勢力にすぎなかった。家康の祖父の代に一時勢力を伸ばしたが、家康の生まれたころはどのような立ち位置だったのかをここでは紹介する。
■迫りくる織田・今川両軍の間で家康人質となる

弘忠と於大の間に、竹千代(後の家康)が誕生する。写真は現・岡崎公園に現存する産湯の井戸。
三河を統一し松平家に勢力拡大をもたらした家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)の急死は、松平一族に動揺を与えた。これを機に、惣領(そうりょう)になろうとしたのが、尾張品野(しなの)城の松平信定(のぶさだ)である。信定は清康の叔父にあたり、清康の弟松平信孝(のぶたか)を引き込み、広忠(ひろただ)に反旗を翻したのだった。
天文4年(1535)12月、織田信秀の支援を受けた松平信定が三河に侵入すると、広忠は、清康の弟康孝(やすたか)に命じて岡崎城外の井田で迎撃させたものの、敗北してしまう。広忠は岡崎城を追われ、代わって信定が岡崎城に入城を果たした。
伊勢に逃れた広忠は、三河の吉良持広(きらもちひろ)や駿河の今川義元(いまがわよしもと)の支援を受け、復帰を図る。そして天文8年に松平信定が死去すると、その混乱に乗じて岡崎城に帰還した。これには留守居の松平信孝も協力しており、以後、この信孝が甥にあたる広忠の後見役として実権を握る。
天文10年、広忠は尾張緒川(おがわ)城および三河刈谷(かりや)城を本拠とする水野忠政(ただまさ)の娘於大(おだい)の方を正室として迎えた。翌天文11年、家康は広忠と於大の方の長男として岡崎城に誕生したのである。
そのころまで、松平氏と水野氏の同盟関係は良好であったが、天文12年7月に水野忠政が亡くなり、子の信元が家督を継いだことで関係が悪化。翌8月、広忠は松平信孝の本城である三木城を攻撃し、信孝を追放した。さらには、於大の方を離縁し、水野氏に送り返したのである。
近年、松平信孝の追放と於大の方の離縁は、信孝と対立した広忠が、水野氏との同盟を主導した信孝を排除するとともに、水野氏の介入を断つために行ったとの説も提起されている。ただ、代替わりに行われていることを考えると、水野信元(のぶもと)が台頭する織田氏に接近したことを忌避したということも十分に考えられる。
こののち、織田信秀(のぶひで)が三河への侵入を繰り返すようになり、安城城も奪われてしまう。しかも、追放したはずの松平信孝が、依然として三河山崎城で抵抗を続けていた。こうした内憂外患に苦慮した広忠は、天文16年8月、今川義元に服属する。その結果、家康は、人質として駿府に送られることとなった。
しかし、広忠と同盟していた戸田康光(とだやすみつ)が田原城で家康を拘束し、信秀に引き渡してしまったという。ただし、これについては、近年、松平氏が今川氏に従わない戸田氏と同盟したことで、織田氏と今川氏の連携が生じ、攻められることになったとの新説もだされている。天文16年に比定される菩提心院日覚という僧侶の書状に「岡崎(松平広忠)ハ、弾(織田信秀)江かう参之分にて、から〳〵の命にて候」(「本成寺文書」)とあり、広忠が信秀に「かう参」すなわち降参したというのが論拠とされる。ただし、この書状からは、岡崎城の落城を確認することはできず、広忠が信秀に家康を人質として出したと断定することは難しい。

静岡駅北口に立つ竹千代(のちの家康)と今川義元の像。竹千代時代の松平家は今川と織田に挟まれ、苦しい立場であった。
もっとも、織田信秀の勢力が強まっていたのは事実であり、天文17年3月、今川義元の家臣太原崇孚(たいげんそうふ/雪斎)らが安城城を攻め、城から打って出てきた織田信秀を撃破した。こののち、織田軍が尾張に引き揚げると、松平信孝が単独で岡崎城に攻め寄せてきたが、4月、広忠は明大寺の戦いで信孝を討ち取っている。
これにより松平一族の内訌が終息するかにみえたが、翌天文18年3月には広忠が家臣に暗殺されてしまう。すぐさま岡崎城を接収した今川義元は、太原崇孚に命じ、安城城を攻撃させた。今川軍は城を守っていた信秀の長男信のぶ広ひろを捕らえると、信秀のもとにいた家康と人質交換する。これにより、家康は駿府(すんぷ)に送られることとなった。
監修・文/小和田泰経