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約束違反に激怒したのは家康の方だった

史記から読む徳川家康⑫


3月26日(日)放送の『どうする家康』第12回「氏真」では、懸川城に立てこもる今川氏真(いまがわうじざね/溝端淳平)と対決する徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。追い詰められた氏真を待っていたのは、意外な結末だった。


 

戦国武将としての最後を迎えた今川氏真

静岡県掛川市の掛川城天守。今川氏の遠江進出の橋頭堡(きょうとうほ)として、朝比奈泰煕が築城したと伝わる。今川氏真が退去した後は、徳川家康の重臣である石川家成が城代として入城した。

 武田信玄(たけだしんげん/阿部寛)の呼びかけに応じる形で、武田・徳川両軍による駿河(するが)・遠江(とおとうみ)侵攻が始まった。信玄の猛攻を前に、今川家の家臣たちは次々に武田軍に寝返り、今川氏真の進退は極まった。

 

 一方、引間城を拠点に遠江制圧を進めていた徳川家康のもとに、今川館から姿をくらました氏真が懸川(かけがわ)城に潜んでいるとの情報が入る。氏真は、妻の糸(志田未来)の実家である北条氏のもとに身を寄せることもできたが、逃げることを潔しとせず、戦うことを選んだのだった。

 

 今川氏の人質だった頃、兄も同然だった氏真の討伐に家康が消極的だったこともあり、懸川城はなかなか落ちない。窮地に追い詰められた氏真の采配が城兵らを鼓舞し、当初は10日の予定だった城攻めは、4か月にもおよんだ。

 

 やがて、城内へ通じる抜け穴を発見した家康は、自ら氏真を急襲。自害を覚悟する氏真だったが、そこへ妻の糸が乱入する。氏真の亡父である今川義元(よしもと)の生前の言葉を糸が伝えたことにより、それまで抱いていた劣等感から解放された氏真は、自死をやめ、家康に降伏することを決断。家康の手引きにより、北条氏の領地へ落ち延びた。

 

 氏真を逃したことを知った信玄は、「氏真の首を獲る」との約定を破った、と激怒。怒り狂った信玄の書状を見ながら家康は、武田軍の侵攻に備えるべきかどうか、考えをめぐらしていた。

 

甲斐の虎を相手に一歩も引かなかった家康

 

『三河後風土記』によれば、武田信玄はまず、今川氏真に遠江(現在の静岡県西部)の譲渡を迫ったという。譲渡すれば、今川氏への恩を忘れ、敵方の織田氏と同盟し、今川氏所属の城を次々に奪う家康を討って差し上げよう、という内容の申し出をしたようだ。

 

 虫のいい提案と見た氏真は拒絶。使者を追い返した。

 

 そこで信玄は外交戦略の標的を家康に変え「家康は遠江を大井川までとれ、わたしは駿河(現在の静岡県東部)をとろう」との約定を交わした(『三河物語』)。

 

 こうして1568(永禄11)年12月、武田軍は駿河に侵攻。早々に今川軍を敗走に追い込んでいる(「赤見文書」)。武田軍に駿府を奪われたため、氏真は懸川城(静岡県掛川市)に退却した(『歴代古案』『三河物語』)。

 

 同年同月に、家康は遠江に侵攻を開始(「恵林寺文書」)。27日には懸川城を包囲した。このときに信玄は家康に「早や懸河へ詰陣尤候」と一刻も早い懸川城攻撃を促している(「恵林寺文書」)。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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