家康が狸親父の片鱗を見せた「三河一向一揆」の結末
史記から読む徳川家康⑨
3月5日(日)放送の『どうする家康』第9回「守るべきもの」では、松平家康(まつだいらいえやす/松本潤)を襲った三河一向一揆の結末が描かれた。家臣との間にできた一時的な溝を乗り越え、家康は敵と味方から、国を治める領主として守るべき大切なものを学んだのだった。
過ちが招いた三河一向一揆が終結

愛知県岡崎市にある大樹寺の本堂内陣。徳川氏の菩提寺で、家康は13代住職の登誉上人から「厭離穢土欣求浄土」の言葉と意味を教わり、以後、座右の銘としたという。晩年の家康は、位牌を大樹寺に安置するよう遺言している。
身近な家臣の中に裏切り者がいると怯(おび)える松平家康は、自室に引きこもり、家臣と距離を置いた。主君不在の軍議はまとまりがつかず、進展しない一向一揆に対する家臣たちのいらだちも高まっていた。
見かねた鳥居忠吉(とりいただよし/イッセー尾形)は、家臣を信じるか、謀反の疑いがある者をことごとく殺すか、二つに一つと家康に助言した。老臣の忠告を受け、家康は家臣を信じることを選択。自ら兵を引き連れ、一向宗の本拠である本證寺に出陣した。家康の出陣により、膠着状態だった戦局は徐々に松平軍優勢に傾いていく。
そんななか、織田家家臣であり、家康の伯父である水野信元(みずののぶもと/寺島進)が寺との和睦を勧めてきた。和議を結んだ後、寺を潰す作戦である。
松平家はもとより、一向宗側も戦の被害は大きかった。そのため、本證寺の住職である空誓(くうせい/市川右團次)は、家康の思惑を半ば知りながら和睦を受け入れることにした。こうして、三河一向一揆は終結した。
戦後処理として、家康は家臣たちから助命嘆願の多かった夏目広次(なつめひろつぐ/甲本雅裕)の謀反を不問とした。一方、一向宗の軍師として暗躍した本多正信(ほんだまさのぶ/松山ケンイチ)は、釈明どころか、過ちを犯したのは家康の方だと糾弾する。家康は自らの過ちを涙ながらに認めた上で、正信を三河から追放する処分を下す。寛大な処分の礼代わりに、正信は一向宗取り潰しの秘策を告げる。
自らの過ちで一揆を招くという大きな失態を前に、家康は気分が晴れない。戦勝気分に湧く家臣たちの大騒ぎの片隅で、妻の瀬名(せな/有村架純)はそっと家康に寄り添った。
「厭離穢土欣求浄土」の旗が初めてはためいた一戦
三河一向一揆は、「日夜、合戦止むときさらになし」(『三河後風土記』)という一進一退の攻防となった。戦場になったのは岡崎城の近隣がほとんどで、松平家家臣同士も槍を交えるという異様な合戦となった。
家康の伯父である水野信元が陣中見舞いに訪れたのは、1564(永禄7)年1月3日のこと。信元は家康とともに一向宗撃退のために出陣している(『武徳編年集成』)。
最大の激戦となったのが、1564(永禄7)年1月11日に行なわれた、上和田の戦いと呼ばれる一戦だった。この戦いで、当初は一揆方として戦っていた家臣の土屋長吉重治(つちやちょうきちしげはる)が、家康の窮地に際して再び松平軍に鞍替えし、家康の危機を救っている(『徳川実紀』)。重治は「いまや主君のお味方は、小勢にて危ない。この身はたとえ無間地獄におちるとも、主君を討たしてよいものか」と一揆勢と戦い、深手を負って死んだという。
帰陣した家康が甲冑(かっちゅう)を脱いだところ、二発の銃弾を受けていたことが発覚したとされるのもこの戦いである(『武徳編年集成』『岡崎記』)。
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