改名した「家康」の由来の謎
史記から読む徳川家康⑦
2月19日(日)放送の『どうする家康』第7回「わしの家」では、逼迫(ひっぱく)する戦費をまかなうため、治外法権となっていた一向宗の寺院から強制的に年貢を取り立てようとする松平家康(まつだいらいえやす/松本潤)の様子が描かれた。三河をひとつの「家」とみなして改名した「家康」だったが、「家」を大混乱に招く過酷な試練が間近に迫っていた。
改名直後に訪れた三河統一の最大の試練

愛知県安城市にある本證寺(ほんしょうじ)。鎌倉時代の創建と伝わる。開基した僧侶・慶円(けいえん)は天台宗に帰依していたが、親鸞の教えに共感し、浄土真宗に改宗したという。寺は寛正年間(1460〜1466年)に改派して、三河一向衆の中心的な寺院になっていった。
1563(永禄6)年、今川氏との手切れに伴い、松平元康は「家康」に名を改めた。今川氏から取り戻した妻子とともに平穏な日々を過ごすなか、家康は同盟相手である織田信長(おだのぶなが/岡田准一)から呼び出され、三河の反乱分子をしっかり抑えておくよう忠告される。
さっそく、三河国内で謀反を企てた勢力を鎮圧した家康だったが、戦(いくさ)続きで岡崎城内の蓄えが底をつきかけていた。反乱はいつまた起こるか分からない。早急な対策を講じなければならなかった。
そこで家康は、領内で豊かな生活をしているという一向宗に協力を求めることを思いつく。しかし、一向宗が裕福なのは、家康の父である広忠(ひろただ)が与えた不入の権と呼ばれる特権を盾に年貢を納めていないからだ。一向宗の寺は武士の介入を一切拒否する自治社会を形成していたため、家臣たちからも反対の声があがる。
一向宗の寺院である本證寺に密かに潜入した家康は、三河国内の疲弊ぶりとは対照的に、活気にあふれた寺内の様子に驚く。松平家の家臣も信者として多数入り込んでいるのも初めて知った。
寺の様子は仏門として不浄と感じた家康は、他宗派の寺院と同じように年貢の取り立てに踏み切ることにした。反対を表明していた家臣には内緒で、強制的に年貢米を奪ったのである。妻の瀬名(有村架純)は「道理に反する」と心配するが、その懸念通り、猛然と抗議する一向宗門徒らが松平家に反乱を起こしたのだった。
「家康」の「家」は義父からもらったものだった?
徳川氏や家康の事績などを記した『朝野旧聞裒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)によれば、家康が改名したのは1563(永禄6)年。「此秋、御諱、元康を改て家康と称し給ふ」と記録されている。
家康の「康」の字は、歴代の松平氏のなかでも英名と名高い祖父の松平清康の名にちなんだものといわれているが、「家」の方の由来は何だろうか。
家康の父祖の名前をさかのぼってみると、次のようである。
親氏―泰親―信光―親忠―長親―信忠―清康―広忠(『三河物語』)
このように家康の直系の系図には「家」のつく人物はいない。そのため、祖先からの「通字」というわけではなさそうだ。
ドラマでも紹介されていた通り、源義家(みなもとのよしいえ)にあやかったというのは説のひとつである(『三河後風土記』)。
源義家は通称「八幡太郎」とも呼ばれた、清和源氏を出自に持つ武士。前九年の役や後三年の役で活躍し、源氏の勢力の基盤を作ったことで知られる。のちに鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)は義家の子孫にあたる。
江戸幕府を開くことになる家康が義家の名から一字を取るというのは一見ありそうな話だが、後年の付会とされている。
実は、松平氏には「家」のついた人物が何人かいる。
桜井松平氏には家次、竹谷松平氏には家清、安城松平氏には長家といった名前が見られる。形原松平氏では家広、家忠、家信と通字のようにして使っていたようだ。つまり、松平一族という点から見てみると、「家」という字はある意味、ありふれた名乗りだった、とみることもできる。
「家」の由来についてはもうひとつ、異説がある。
家康は桶狭間の戦いのあった1560(永禄3)年に、幼い頃に生き別れた実母の於大の方(おだいのかた)と再会を果たしている。このとき、於大が再婚していた相手が久松俊勝(ひさまつとしかつ)だ。
家康は、於大の方と俊勝との間に生まれた三子を松平家に迎え入れるなど、実に温厚な交流をしている。この当時、俊勝の名乗っていた名前が「長家(ながいえ)」だった。家康の「家」は、この長家から譲り受けたのではないか、とする説である。ドラマの中でも、俊勝は長家の名前で登場している。
なお、後年、久松長家は「長家」から「俊勝」に名乗りを変えているが、出世した家康にはばかっての改名といわれている。