徳川・織田の同盟は「対等」と「従属」どちらだったのか?
史記から読む徳川家康④
1月29日(日)放送の『どうする家康』第4回「清須でどうする」では、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)との同盟会談に臨む松平元康(まつだいらもとやす/松本潤)の姿が描かれた。圧倒的な力を誇示する信長に対し、元康はあくまで対等の同盟締結にこだわるが、一方で、駿府(すんぷ)に残した妻子の命が危機にさらされていた。
妻子の窮地に元康が奮起する

愛知県名古屋市にある萬松寺。織田家の菩提寺として開基された寺院で、今川家より前に一時、織田家の人質となった家康が3年ほどをこの寺で過ごしたという。
織田家と同盟を結ぶべく、織田信長の待つ清須(きよす)城に向かった松平元康は、信長の築いた町並みや、統制のとれた家臣団たちに驚きを隠せなかった。
人質時代の幼馴染であり、信長の妹である市(北川景子)とも再会を果たすなか、元康は同盟を締結。あくまで対等の同盟と主張する元康に対し、信長は、元康のかつての所属先だった今川家の殲滅(せんめつ)を要望する。
一方、今川家に残された元康の妻・瀬名(有村架純)の命運は、今川義元の跡を継いだ新たな当主・氏真(うじざね/溝端淳平)の手に握られていた。
正室でも側室でもなく、夜伽(よとぎ)役にして瀬名を助命するつもりの氏真だったが、瀬名の胸の内に元康への強い思いがあることを知って逆上。氏真は、今川家に帰参しなければ瀬名の実家である関口家を皆殺しにする、と脅迫する書状を元康に送った。そこには、救いを求める瀬名の血文字も添えられていた。
愛する妻の窮地に怒りがこみ上げる元康は、勧められていた市との結婚を白紙に戻すことを信長に進言。刀を突きつけ真意を問いただす信長に対し、元康は織田家との盟約に従い、今川領をことごとく切り取り、今川家を滅亡させることを誓った。妻子を取り戻すためだった。
幼い頃から密かに元康に恋心を抱いていた市は、その勇姿を複雑な表情で見つめていた。
異例の待遇となった背景にある信長の事情
江戸幕府の幕臣である木村高敦(きむらたかあつ)の著『武徳編年集成』によれば、家康が織田信長と清須城で会談を持ったのは、1562(永禄5)年1月15日とされている(諸説あり)。水野信元(みずののぶもと)が信長に家康との和睦を提案(あるいは信長の発案だったともいう)し、これを受けた信長が松平家家臣の石川数正(いしかわかずまさ)に使者を送ったことで、具体化していったようだ。
信長が家康に同盟を持ちかけたのは、今川義元(よしもと)死後に破竹の勢いで三河国(現在の愛知県東部)の一部を平定したことへの称賛があったのかもしれない。あるいは、何らかの形で家康の人柄を知り、同盟を結ぶべき相手と見込んだのかもしれない。
いずれにしても、織田家の事情として最も大きいのは、尾張統一を目前に控えた信長が、次の目標として美濃国(みののくに/現在の岐阜県南部)侵攻を画策していたことだろう。美濃攻めに専念するためには、背後の三河で騒がしく動いていた家康を押さえておく必要があった。
一方、家康にも信長の申し出を渡りに船、と乗る理由がある。服従していた今川家は、義元亡き後は実に動きが鈍い。
一方の尾張・織田家は、信長の指揮の下で経済的に発展し、軍事力の増強も著しかった。すでに織田家は、東海道随一といわれた今川家の規模に迫る勢いがあったのである。どちらと手を結ぶのが得策かを冷静に判断した結果が、信長との同盟だったといえる。
家康が清須城に赴いた際には、多くの見物客でごった返したという。あまりに騒がしかったので、当時まだ14歳だった本多忠勝(ほんだただかつ)が大薙刀(おおなぎなた)を振るい、「三河の松平元康、参着せり。無礼をいたすな」と威嚇した、との逸話も伝わっている。
この時に家康と信長は、下記のような盟約書を取り交わしたという。
「いまよりともに水魚の情深く交わり、両旗をもって天下の乱を治むべし。信長天下を一統せば、松平殿旗下となり、松平殿天下を統御なしまさば、信長旗下に属すべし」
これを3つにちぎって信長、家康、信元(のぶもと)の3人で茶碗の水に浮かべて飲んだという(『三河後風土記』)。
起請文(きしょうもん)を燃やして灰にした後、水に溶いて家康と信長が飲んだ、との話もある(『岩淵夜話』)。
当時の家康と信長が「天下の統一」を念頭に置いていたかどうかは疑わしいところだが、いずれにしても、両家が対等の同盟を結んでいた、という点は確かなようだ。家康の父である広忠(ひろただ)は、今川家と同盟ではなく従属的な支配関係を選ばざるを得なかったことを考えれば、松平家によって大きな躍進だ。
それどころか、この同盟関係は決して破られることなく、信長の死まで守り続けられることとなる。ほとんどの同盟が口約束で、破談になることも少なくなかった時代だったため、このことをもって、家康を「律義者」と評する向きも少なくない。
なお、家康がわざわざ信長の居城に出張(でば)っていることから、同盟は対等ではない、との見方もあるが、後に親交の証として家康の嫡男(信康)と、信長の娘(徳姫)との政略結婚が成立している(『神君御年譜』)から、そうとばかりもいえない。当時、娘を嫁がせることは人質を送るのに等しい行為だからだ。
この時の松平家と織田家との力関係から考えれば、信長は異例の待遇で家康と和したということになる。
さて、こうした同盟関係は、たちどころに今川氏真の知るところとなる。
氏真は家康に対し、「怨敵(おんてき)織田へ一味された由、返答の次第によっては存ずる仔細(しさい)がある」と詰問の使者を送ったという。つまり、返答によっては人質である妻子の命がどうなっても知らないぞ、と脅しをかけたのである。
これに家康は強気で返答している。いつまでも義元の仇討ちに動かない氏真を非難した上で、こう切り返した。
「信長と和睦したのは、一時の権謀(けんぼう)。妻子を人質に置く身が、何故二心ありましょうぞ」
これらは『三河後風土記』に紹介されるエピソードだが、同書によれば、家康の弁明に氏真は「言い分もっとも」と素直に納得したらしい。
信長と同盟を結び、氏真からの疑念を一時的に解いた家康は、三河統一に向けた動きをますます加速させていくこととなる。