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政略と思惑に満ちた「徳川・織田・豊臣」三家間の「婚姻」

学び直す「家康」⑨

築山殿と信康の悲劇を呼んだ徳姫の心情

築山殿を斬首した刀を洗ったと伝わる太刀洗の池。遺体は浜松・西来院に葬られ、現在は彼女を祀る月窟廟が立つ。

 家康の嫡男・信康(のぶやす)と信長(のぶなが)の娘・徳姫の結婚は、悲劇のはじまりだった。結婚後、徳姫は女子を2人産んだものの、家督を継ぐ男子には恵まれなかった。そこで、一計を案じた築山殿(つきやまどの)は、徳川家の家臣・浅原氏の娘を信康の側室とし、待望の男子が誕生するように仕向けたのである。この築山殿の配慮は、かえって徳姫の反感を買ったようだ。

 

 天正7年(1579)、徳姫は『十二ヶ条の訴状』を父・信長のもとに送りつけ、築山殿と信康が甲斐の武田家と内通していると告発した。この一事によって、信長は家康に築山殿と信康の厳しい処分を迫ったといわれている。

 

 築山殿は信康の助命嘆願をするため、岡崎から浜松へ向かったが、その途中で家康の家臣によって殺害された。間もなく信康も切腹した。しかし、家康が2人を処分したのは、信長の命令ではなく、武田派だった2人を粛正することで、家中の結束を図ったのが正しい理解とされている。

 

 天正12年、家康は織田信雄(おだのぶかつ)とともに豊臣秀吉(とよとみひでよし)に兵を挙げたが、結局は和睦を結ぶことになった。

 

 秀吉は家康に上洛を促したが、警戒心からかなかなか実現しなかった。そこで、秀吉は警戒心を解くため、母の大政所(おおまんどころ/天瑞院/てんずいいん)を岡崎(愛知県岡崎市)に向かわせた。さらに、秀吉は家康との関係を強めるため、妹の朝日姫(あさひひめ)を輿入れさせたのである。

 

 朝日姫は天文12年(1543)、父・筑阿弥(ちくあみ/再婚後の夫)の娘として誕生した。母は天瑞院、兄は豊臣秀吉である。成長した朝日姫は、尾張国の地侍である佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と結婚したという。

 

 天正12年、先述のとおり、秀吉は、朝日姫を家康のもとに嫁がせようとした。そして、堀尾吉晴(ほりおよしはる)・生駒正俊(いこままさとし)を派遣し、朝日姫の夫・佐治氏に500石の加増を条件として離縁を命じたのである。

 

 秀吉は離縁を確認後、家康に朝日姫の輿入れを打診した。家康はこれを承諾し、天正14年に後室として朝日姫を迎え入れた。ときに朝日姫は44歳、家康は45歳だった。朝日姫は浜松城から駿府城に移ったので、駿河御前(するががごぜん)と呼ばれた。

 

 しかし、朝日姫はわずか2年間を家康と生活をともにしただけで、京都の聚楽第(じゅらくだい)へ引き返した。実母・大政所の病気見舞いが理由である。以後、朝日姫は家康のもとに帰ることなく、天正18年に聚楽第で没した。享年48。

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