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なぜ今、家康なのか?【前編】

学び直したい「家康」①

今こそ求められる人命尊重および平和と不戦の思想

松平姓から徳川姓に改姓した25歳当時の姿を復元した徳川家康像。日本最大級の騎馬像として威容を誇る。

 家康は、子どもの頃、はじめ織田信秀(のぶひで)、ついで今川義元(よしもと)の人質となる悲惨な体験をしている。今川時代の人質は優遇された人質ではあったが、やはり人質は人質である。その今川人質時代、今川軍の一員として17歳になった家康は初陣を果たしており、それから73歳のときの大坂夏の陣まで一生涯戦いの連続だった。家康自身、敵の銃弾2発を受けるという危ない場面も経験している。

 

 そうした、いつ命を奪われるかもしれないという人質体験・戦争体験が根底にあって、自らが天下人になったとき、人の命の大切さ、戦うことの愚かさを前面に押し出すことになったものと思われる。

 

 たとえば、家康が征夷大将軍となって初めて下した法度があるが、慶長8年(1603)3月27日付の定書(「御制法」所収文書)の7条目に、

 

 百姓むさところし候事御停止也。たとひ科ありとも、からめ取、奉行所にをいて対決の上可被申付事。

 

 という一文がある。将軍に就任して最初の法度は、いわば、現代の首相が初めて国会で施政方針演説をするのと同じであるが、この一文で理由もなく百姓を殺害することを禁じており、人の命の大切さを声高らかに訴えたものといってよい。

 

 それから12年後の慶長20年(元和元年、1615)、大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させた家康は閏(うるう)6月13日付で「一国一城令」を出し、さらに7月7日には「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を発布している。どちらも、この時点でのトップである将軍は秀忠なので、秀忠の名で出されてはいるが、家康の施策だということは誰もが認めるところだったと思われる。

 

 この「一国一城令」および「武家諸法度」によって幕府による大名統制が進み、大坂夏の陣を最後に国内での戦いはなくなった。

 

 このことをもって「元和偃武(げんなえんぶ)」といっている。偃武とは「武をやめる」の意味で、武器を蔵に収めて用いない、つまり、「戦いをやめる」というわけで、実際、江戸時代を通じて、大名同士の戦いや、幕府と大名の戦いはなく、そのため「徳川の平和」とよばれている。

 

 悲惨な人質体験、戦争体験をもつ家康が求め続けた夢が実現したといっていいのかもしれない。世界でいま、戦争が続発しているとき、改めてこの家康の「元和偃武」は注目されるのではないかと思う。

 

滅ぼした大名の遺臣を生かして登用した家康

 

 ところで、人の命の大切さを訴えた家康は、人を生かして使う天才でもあった。

 

 徳川家臣団というと、多くの人は三河譜代という言葉を思い起こすと思われる。たしかに、初期のころの中核は三河譜代によって占められていたが、家康の勢力が拡大するにつれ、三河譜代の比重は減少する傾向にあった。それは、自分が滅ぼした大名の遺臣を家康が積極的に登用していったからである。

 

 永禄11年(1568)から翌年にかけて、家康は武田信玄と結んで駿河・遠江(とおとうみ)の今川氏真(うじざね)を攻め滅ぼし、新たに遠江も領国に組み込んだが、そのとき、自分が滅ぼした今川遺臣を家臣にしているのである。

 

 のちの「徳川四天王」といわれる酒井忠次(ただつぐ)・本多忠勝(ただかつ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)・井伊直政(いいなおまさ)の4人のうち、榊原康政までの3人は三河譜代であるが、4人目の井伊直政は、今川氏真の家臣だった井伊直親(なおちか)の子であった。

 

 また、天正10年(1582)には、織田信長勢の一員として家康も甲斐の武田勝頼(かつより)攻めに加わっており、武田家を滅亡させたが、そのあと、家康は武田遺臣を多くとりこんでいるのである。これについてはおもしろい話があるので、かいつまんで紹介しておこう。

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