「家康像」に影響を与えた歴史史料の信憑性
学び直す「家康」④
■文治政治の時代に入り「神君」家康像が確立される

『松平記』
天文4年(1535)年の森山崩れ(家康祖父・松平清康が暗殺された事件)から天正7年(1579)の築山殿自害までを記す。上は桶狭間の戦いで今川義元が討死したことを家康が知る場面。国立公文書館蔵
家康の事績を記す史料のなかで、最も古い部類に入るのが『松平記(まつだいらき)』である。ただし、主眼は松平一族の歴史にあり、しかも、天正7年(1579)の築山殿(つきやまどの)や嫡男信康(のぶやす)の死までしか取り上げられていない。
大坂の陣までの歴史を日記風に記しているのが『当代記(とうだいき)』である。著者は、家康の孫の松平忠明(ただあきら)とされるが、確かなことは分かっていない。
『当代記』と同じく日記の体裁により、大御所となった家康の事績を記したのが『駿府記(すんぷき)』である。著者は家康の側近であった後藤光次(ごとうみつつぐ)あるいは林羅山(はやしらざん)ともいわれるが、断定することはできない。『当代記』と異なり、家康の動向を詳しく書き留めているので、近侍していた人物であったのは確かであろう。
家康の死後、大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん/忠教/ただたか)によって記されたのが『三河物語(みかわものがたり)』である。この『三河物語』には、引用文献の注記がないため、どこまでが史実であるか判断が難しい。
ただ、忠教自身、子孫への教訓を目的として書き残すと、あとがきで述べていることからも、江戸幕府の成立に寄与した大久保一族の功績を記すのが目的であり、史実をゆがめるつもりはなかったと考えられる。
天下泰平の世の中になると、幕府でも神君(しんくん)家康の事績をまとめる動きが出てきた。貞享3年(1686)には、5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の命をうけた林鳳岡(はやしほうこう)らが『武徳大成記(ぶとくたいせいき)』を編纂し、松平一族の出自から家康の天下統一までをまとめている。脚色などはみられないものの、引用文献の注記がないため、史実か否か判然としない逸話も含まれている。
元禄9年(1696)頃には、肥前平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)によって『武功雑記(ぶこうざっき)』が編纂された。織田信長・豊臣秀吉の時代から、徳川家康の時代にかけての逸話が記される。平戸藩で召し抱えていた牢人らから聞き取りをしたもののようで、すべてが史実とは断定できないものの、比較的信憑性は高いとされる。
■脚色を廃し史実を網羅したと考えられる『徳川実紀』
元文5年(1740)には、幕臣の木村高敦(きむらたかあつ)によって『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』が編纂され、幕府に献上されている。家康の誕生から死去までを網羅した一代記であり、また、古文書を収録するなど史料的な価値も高い。
さらに宝暦13年(1763)には、水戸支藩である陸奥守山藩主・松平頼寛(よりひろ)が『大三川志(だいみかわし)』を完成させた。家康の一代記を編年体で叙述したもので、幕府にも献上されている。
こうしたなか、天保12(1841)、11代将軍・徳川家斉(いえなり)の命を受けた林述斎(はやしじゅっさい)らが中心となり、『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほんこう)』が完成している。これは、松平一族の歴史から徳川家康の死去までを網羅した史料集であり、家康の伝記という性格のものではない。
その後、同じく林述斎らによって『徳川実紀(とくがわじっき)』が編纂された。こちらは、歴代将軍の事績を記したもので、家康の一代記は「東照宮御実紀(とうしょうぐうごじっき)」という。基本的には史実を追求したものであり、意図的に脚色や創作を加えるような痕跡はみられない。
しかし、この時代になると、兵学者の大道寺友山(だいどうじゆうざん)が著した『岩淵夜話別集(いわぶちやわべっしゅう』『駿河土産(するがみやげ)』『落穂集(おちぼしゅう)』などの逸話集も広く流布していた。逸話集は、もともと史実か否かには主眼がおかれていない。その点、『徳川実紀』は、歴史を忠実に叙述しようとする本編と、逸話を集めた附録に区別している。そうしたことから、本編の信憑性は高いとされる。
家康はとかく「辛抱強い」あるいは「狸親父」といった印象で語られがちである。しかし、そう描く史料そのものは存在していない。「なかぬなら鳴くまで待よ郭公(ほととぎす)」と家康がと詠んだという話は、江戸時代後期に平戸藩主・松浦静山(まつらせいざん)が記した随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』で知られている。「辛抱強い」家康像が広まったのはこのあたりからと考えられる。
だが、そもそも家康がこの句を詠んだ史実は確認されていない。「狸親父」の印象も、江戸時代に公然と記されることはなかった。近代に大坂の陣での真田幸村の活躍が取り上げられるなかで広まったものだろう。
監修・文/小和田泰経
(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より)