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関ヶ原後に「大坂」包囲網を築いた家康の知略

戦国武将の領土変遷史㉒

豊臣の蔵入地が限定され、秀頼の力が大きく削がれる

大阪市天王寺区玉造本町の玉造稲荷神社にある、豊臣秀頼公像。慶長16年に行なわれた二条城での会談で、秀頼は徳川家康と対面。この時点で、豊臣と徳川の立場は逆転するが、家康は豊臣家を滅ぼす決意をしたと言われている。

 豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600)に東西両軍が激突した関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康は、近江の佐和山城を陥落させ、同じく水口(みなぐち)城も開城降伏、丹波でも亀山城・福知山城を降した。戦後処理では佐和山城に重臣の井伊直政(いいなおまさ)、膳所(ぜぜ)城には戸田氏鉄(とだうじかね)を配置し、渡辺半蔵(わたなべはんぞう)・永井直勝(ながいなおかつ)にも近江の内で所領を与えた。

 

 いずれも後に言う「親藩・譜代」の家であり、家康が交通の要衝、そして京・大坂をにらむ近江を重視していたことが分かる処置だ。

 

 さらに近畿の外縁部にあたる播磨には娘婿の池田輝政(いけだてるまさ)、越前には家康次男の結城秀康(ゆうきひでやす)が置かれ、後の「豊臣包囲網」の原型が、早くもこのときにできあがっている。

 

 これに加え、西軍として家康に敵対した毛利輝元(もうりてるもと)に対し「周防・長門両国進め置き候事」と中国9カ国の所領のうち7カ国(安芸・石見・備後・備中・出雲・隠岐・伯耆)を取りあげる処置を通知したのをはじめとして、最終的に西軍大名93家の632万石余りを没収し、東軍諸将には大きな加増で報いた。家康自身も250万石から400万石へと石高を大きく飛躍させた。

 

 これらの措置には西軍大名の領地没収だけでなく豊臣家の蔵入地(くらいりち/直轄領)も摂津・河内・和泉の3カ国に限定し、200万石から65万石へ大幅に公収した分も充当され、豊臣秀頼(ひでより/秀吉の子)の力は大きく削減されることとなる。

 

 慶長8年、征夷大将軍に就任した家康は、わずか2年後にその地位を息子の秀忠(ひでただ)に譲る。徳川政権は永続することを宣言し、豊臣家の政権復帰の目はないとアピールしたのだろう。

 

 家康は秀頼に上洛して新将軍・秀忠に祝いを述べよと要求したが、秀頼の母・淀殿(よどどの)が「親子ともに自害あるべき」と騒いだため、庶民に至るまで荷物を担いでの避難騒ぎになった(『慶長見聞録案紙(けいちょうけんぶんろくあんし』)。

 

 これに対して家康は事を荒立てず、松平忠輝(まつだいらただてる)を使者として大坂に挨拶に行かせた。秀頼が出て来て家康父子に挨拶すれば、自動的に秀頼も徳川幕府の一大名としての立場を得ることができた。

 

 だが、家康は大坂という経済の中心地を押さえる豊臣家が幕府の政策の邪魔になり、相容れないことを確認し、将来の大坂討滅を最終的に決意するのだった。

 

大坂を包囲する大城郭ネットワークを構築

 

 この年に井伊氏の新たな居城となる近江彦根城の天下普請が開始されると、続いて慶長13年8月に外様ながら家康の腹心である藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊予(現・愛媛県)から伊賀・伊勢(現・三重県)へ異動となり、さらに翌年9月には淡路をも高虎に与えた。高虎は伊賀上野(うえの)城を西に備える形に強化改修。

 

 翌年には親藩の松平康重(まつだいらやすしげ)が丹波八上(やかみ)城に移され、篠山(ささやま)城の天下普請も開始された。大坂包囲の大城郭ネットワーク構築である。

 

 慶長16年3月28日、ついに秀頼が家康を訪ねる。京・二条城で秀頼と対面した家康は「なかなか人の下知など受くべき様子にあらず」と感想を述べたと言う。「秀頼は自分(幕府)の命令には従わぬ」と、既定の討滅方針を再確認したのである。

 

 慶長19年7月26日、秀頼が進めていた京・方広寺(ほうこうじ)大仏殿の再建事業での鐘銘問題などに端を発し、ついに「大坂冬の陣」が勃発する。牢人などの寄せ集めが主力の豊臣軍12万、攻める幕府軍は20万だったが、難攻不落の大坂城に籠もる敵を家康もそうやすやすと強攻できず、今福(いまふく)・鴫野(しぎの)での戦いや真田丸の攻防など若干の小競り合いのあと12月21日に和議を成立させた。

 

 翌元和元年(1615)4月5日に起こった夏の陣では、堀を失った豊臣軍は野外決戦を強行するより他に作戦もなく、真田信繁(さなだのぶしげ)らの奮闘もあったが、城は陥落し、秀頼と淀殿以下も自刃。のち大坂は幕府直轄領となり大坂城も再建された。

 

監修・文/橋場日月

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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