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なぜ今、家康なのか?【後編】

学び直したい「家康」②

家康を強くした「三方ヶ原」の大敗北

松平姓から徳川姓に改姓した25歳当時の姿を復元した徳川家康像。日本最大級の騎馬像として威容を誇る。

 こうした家康の人材観がいつごろ、どのように形成されていったかを考えたとき、一つ思いあたるのが、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの大敗北である。

 

 三方ヶ原の戦いというのは、元亀3年(1573)12月22日、浜松郊外三方ヶ原で、家康が武田信玄と戦い、完膚なきまでに打ちのめされた戦いである。このとき、8000人いた家康軍のちょうど一割にあたる800人が討ち死にしたという。実は、この戦いで逃げる家康の身代わりになって死んでいった家臣が何人もいた。つまり、家康は、そうした家臣たちの犠牲によって生きのびることができたわけである。そのことによって、家康は、「自分は家臣によって生かされた」と強く思うようになったのではないかと考えられる。

 

 越前の戦国大名朝倉氏の一族部将朝倉宗滴(そうてき)の『朝倉宗滴話記』に、「巧者の大将と申(もうす)は一度大事の後(おくれ)に合たるを申す可く候」という一文がある。

 

 「大事の後」とは大敗北のことである。この言葉を家康が聞いていたわけではなく、読んでいたわけでもないが、三方ヶ原の大敗北は家康にとって文字通り「一度大事の後」に該当する。挫折をバネに飛躍していったことがうかがわれる。「人生あきらめては駄目だ」ということと、もう一点、この大敗北あたりから、家康の家臣に対する考え方が違ってきている点も注目される。

 

 家康が口癖のようにいっている言葉に、「宝の中の宝というは人材に如(し)くはなし」、つまり「家臣こそわが宝」というのがあるが、そうした言葉を発するようになるのは、この三方ヶ原の大敗北からである。

 

歴史を学び続けた家康に学ぶ

 

 さて、家康の人間的魅力として、最後に私が取りあげたいのは、家康が一生、学ぶ姿勢を持ち続けていた点である。よく本を読んだし、藤原惺窩(せいか)から学者の講義もよく聞いていた。

 

 大御所時代、家康の侍医として、家康のすぐそばにいた板坂卜斎(ぼくさい)が『慶長記』を著(あら)わしているが、その中で、「家康公、書籍すかせられ」として、中国の漢籍として愛読していたものは、『論語』『中庸』『漢書』『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』『貞観政要(じょうがんせいよう)』の6つをあげ、和本では『延喜式』『吾妻鏡』の2つをあげている。

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