「海道一の弓取り」と称賛された家康の独立運動
史記から読む徳川家康③
1月22日(日)放送の『どうする家康』第3回「三河平定戦」では、今川氏と織田氏との間で揺れる松平元康(まつだいらもとやす/松本潤)の姿が描かれた。元康は妻子の待つ駿府の今川氏と運命を共にするつもりだったが、取り巻く状況がそれを容易には許さなかった。
武将として苦渋の決断を迫られる

愛知県西尾市に建つ東条城の城址碑。鎌倉時代から吉良氏の居城となっていたが、1582(天正10)年に廃城となった。現在は古城公園として整備されている。
桶狭間(おけはざま)の戦いに勝利した織田信長(おだのぶなが/岡田准一)は、その勢いのまま、今川領への侵攻を強めていた。その最前線にあるのが三河だった。
三河の岡崎城に入城した松平元康は、今川義元(いまがわよしもと/野村萬斎)亡き後を継いだ今川氏真(うじざね/溝端淳平)より、父の仇を討つとの書状を受け取っていた。氏真は、三河にとどまり織田勢を打ち払え、と元康に指示。妻や子のために一刻も早く今川氏の領国である駿府(すんぷ)に戻りたい気持ちで焦る元康だったが、猛者の集う織田氏相手の合戦に一抹の不安を覚える。
目下の敵は、刈谷城の水野信元(みずののぶもと/寺島進)だ。信元はかつて松平家の家臣だったが、今は織田家に寝返っている。さらに、元康の生母・於大の方(おだいのかた/松嶋菜々子)の兄で、信元の寝返りのせいで於大の方は松平家から離縁させられていた。元康は信元を快く思っておらず、城攻めには何の躊躇(ちゅうちょ)もない。
三河から織田勢を追い払うための戦いと、多くの領民が元康の指揮する刈谷城攻めに参加するが、信長が後援する刈谷城はなかなか落ちない。敗北を重ね、次々に家臣や領民を討死させるなど、元康は窮地に立たされる。加えて、氏真からの援軍は期待できそうもない。
そんななか、信元は於大の方を連れて元康の陣を密かに訪れる。幼年の頃に生き別れた母との再会を喜んだのも束の間、御家のために今川氏と手を切り、織田方に味方するよう説得する於大の方に、元康は耳を疑う。駿府に残る妻子を何より大切に思う元康にとって、彼女たちの命など打ち捨てるよう促した於大の方の助言は、承服しがたいものだった。
さらに元康は、重臣の石川数正(いしかわかずまさ/松重豊)や酒井忠次(さかいただつぐ/大森南朋)、その他多くの家臣や岡崎城下の領民らも、今川の支配から逃れるのを望んでいることを知る。忠次は、領民を困窮の極みに立たせてきた今川氏ではなく、松平家のため、岡崎の領民のため、元康に三河を平定してほしいと懇願する。
忸怩(じくじ)たる思いで元康は今川氏からの離反を決意。三河における今川氏の忠実な家臣である吉良義昭(きらよしあき/矢島健一)の東条城に、涙ながらに火を放ったのだった。
於大の方と再会した場所は敵方の館だった
幼少の頃に生き別れた生母・於大の方と家康が再会を果たしたのは、大高城への兵糧入れを果たした前日の1560(永禄3)年5月17日のことだったといわれている。
江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、対面場所は尾張・久松俊勝(ひさまつとしかつ)の館だったらしい。俊勝は、ドラマにおける久松長家(ながいえ)のことで、於大の方の再嫁先である。
当時、俊勝が織田方、家康が今川方と敵味方に分かれていたわけだが、家康と於大の方との事情を察した俊勝は、家康からの申し出を快諾し、館での対面を許したという。
実に16年ぶりとなるふたりの再会は、涙に暮れたものとなった。その場には家康と於大の方だけではなく、於大の方が久松家に嫁いでから生んだ3人の子どもたちも同席していたという。
この3人は後に松平氏を名乗る、康元、康俊(やすとし)、定勝(さだかつ)である。家康はこの時に、彼ら異父弟と兄弟の契りを結んでいる。
さて、岡崎城に入った家康が警戒すべきは、今川氏の敵である織田信長の動向であった。用心を怠ることなく情勢を注視していたが、なぜか織田軍は動きを見せない。
そこで家康は、三河における織田方の諸城である挙母城(ころもじょう)などの拠点を攻めた。そればかりか、沓掛城(くつかけじょう)など織田氏のお膝元である尾張の城にも火を放つなどしている。
これらを見て人々は「天晴れの大将、海道第一の弓取りかなと、感ぜぬ者はなかりけり」(『三河後風土記』)と家康を称賛したという。家康が「海道一の弓取り」と称されたのはこの時が最初、という研究もある。
一方で、家康は今川義元亡き後を継いだ氏真に対し、「父君の弔い合戦をとくとく仕立て給うべし。手前、先陣を承り、先君の恩誼に報いましょう」と何度も申し入れている。ところが、氏真は一切動こうとしなかったという(『三河後風土記』)。
あくまで今川家の家臣としての姿が描かれているが、一般的には、家康は義元の死去を絶好の独立の好機と捉えていた、と考えられている。
しかし、妻子が駿府に残されており、いわば人質となっていたことが家康の足かせとなっていたことは想像に難くない。
義元の死後、今川方の諸将が相次いで寝返っており、これを見た氏真は、寝返った武将の妻子を城下の龍拈寺(りゅうねんじ)に引き出し、串刺しの刑にしている(『朝野旧聞裒藁』)。首を斬るのではなくわざわざ串刺しにしているのは、寝返りに対する見せしめと考えられている。当然、この警告は家康にも届いていただろう。
いずれにせよ、家康がすぐさま氏真のもとに馳せ参じず、岡崎城に留まり続けたのは、ようやく取り戻した居城と領国をまずは死守するためと考えられる。つまり、岡崎城に入った瞬間に家康の独立運動が始まった、と見るべきだろう。
なお、劇中では東条城の吉良義昭を攻撃したことを今川氏との手切れとして描いているが、攻城自体は徳川氏創業の事績をまとめた『松平記』や徳川家家臣の著作である『三河物語』などで触れられている通り史実ではある。
しかし、実はこれより半年ほど前に今川方の武将である板倉重定(いたくらしげさだ)を攻めている。つまり、家康は桶狭間の戦い以降、織田氏の拠点を攻め落とす一方で、早くから今川氏に対する攻撃も始めている。これらはすべて、義元の死から1年も経たないうちの行動なので、家康はかなり早い段階で、独立を意識しながら大名としての地歩を固めようとしていた、といえる。