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深謀遠慮の末に奪還した居城・岡崎城

史記から読む徳川家康②


1月15日(日)放送の『どうする家康』第2回「兎(うさぎ)と狼(おおかみ)」では、13年ぶりに松平氏の居城である岡崎城に入城する松平元康(まつだいらもとやす/松本潤)の姿が描かれた。敵方に囲まれ、一時は死を覚悟した元康だったが、幼い頃に発揮した闘争心を奮い立たせた。


主君としての振る舞いに家臣が奮い立つ

愛知県岡崎市に建つ岡崎城。家康の誕生した地であり、家康の祖父である清康、父の広忠、家康、そして嫡男の松平信康と、4代にわたって居城とした。江戸時代は「神君出生の城」として神聖視されたが、明治に入ってまもなくして取り壊された。現在の天守は1959(昭和34)年に復元されたもの。

 織田信長(岡田准一)の軍勢に囲まれた松平元康の脳裏には、尾張で人質となっていた幼き頃に、信長から受けたひどい仕打ちがよぎっていた。恐怖におののく元康だったが、信長の軍勢はやがて引き揚げていった。一同が信長の真意に首をひねるなか、この隙に夜半に城から出て、敗死した今川義元(いまがわよしもと)の領土であり、元康が人質生活を送っていた駿府を目指すこととした。

 

 その道中、元康は同じ松平一族の松平昌久(まつだいらまさひさ/角田)の軍勢に襲われる。三河領にある松平家の菩提寺・大樹寺に逃げ込むも、昌久の軍勢に取り囲まれ、八方塞がりとなった。

 

 元康は、大樹寺に祀(まつ)られる父や祖父の墓前で、腹を切る覚悟を示した。自分の首を差し出せば、家臣たちの命は助かると考えたからだ。

 

 しかし、介錯を申し出た家臣の本多忠勝(ほんだただかつ/山田裕貴)の主君に対する想いを聞いているうちに、幼き頃にしごかれていた信長に一矢を報いた時の記憶が蘇った。狼のような信長に対し、腕を締め上げて反抗したことを思い出し、闘志がみなぎってきたのである。

 

 大樹寺の門を開き、昌久の軍勢に姿をさらした元康は、駿府(すんぷ)ではなく三河の岡崎に戻ることを宣言。元康の形相に気圧された昌久らの軍勢は、思わず道を空ける。

 

 こうして岡崎城に入城した元康は、頼りがいのある立派な主君として覚醒したかに見えた。しかし、家臣たちの目の届かない場所に佇んだ瞬間、膝から崩れ落ちた。

 

「どうしよう、これから……」

 

入城までにいくつも慎重さを見せた

 

 織田信長の事績をまとめた『信長公記』によれば、家康が大高城(おおだかじょう)に兵糧を入れたのは、1560(永禄3)年518日。翌日には鵜殿長照(うどのながてる)に代わって、大高城を守ることとなった家康だったが、その日のうちに、今川義元討死の報を受け取ることとなる。

 

 最初は風聞として流れてきたため、家康も信じていない。「いくさに流言はつきもの」といって動じなかったという。

 

 詳細な知らせを届けにきたのが、水野信元(みずののぶもと)だった。信元は家康の生母である於大(おだい)の方の兄。家康にとって伯父の間柄だったが、信元は松平家を裏切って織田方についた人物だった。そのために、於大の方は松平家から離縁されている。

 

 いずれにしても、信元からの知らせを受け取ってはじめて、家康は義元討死の報が真実であると確信し、大高城から逃れることを考えたという(『徳川実紀』『三河後風土記』)。

 

 しかし、さらなる家康の慎重さをうかがわせるエピソードがある。享保年間(17161736年)に成立した、兵法家・大道寺友山の著書『落穂集』によれば、信元からの知らせに対し、家康はこう反応している。

 

「こんなときは、縁者とても信用できぬものだ」

 

 義元の討死は虚報であるとの前提で粛々と籠城の準備をしていると、岡崎にいた鳥居忠吉(とりいただよし)の部下からの知らせが届き、ようやく引き揚げる決意をしたという。

 

 引き揚げの時にも、家康の慎重さは際立っている。夜半に城を出る、というのもそのうちのひとつ。城内には旗を少しだけ残し、篝火(かがりび)を炊いたまま城を出た。いかにもまだ籠城を続けている体裁を装うためだ。

 

 そのまま家康らは岡崎城に向かったが、まず松平家の菩提寺である大樹寺に入っている。岡崎城には、今川方の兵らが残っていたからだ。つまり、遠慮する形で、岡崎城の目と鼻の先にある大樹寺に控えたのだ。

 

 ところが、当然、岡崎城には義元討死の知らせは届いている。彼らは一刻も早く駿府に戻りたい。そこで家康に岡崎城に入るよう、再三催促したが家康は応じない。「駿府からお指図がない限り、勝手はできません」などといって、大樹寺から動こうとしなかったという。

 

 辛抱たまらなくなった今川勢は、城を捨てて逃げ去った。それを見た家康は悠々と岡崎城に入城したのである(『三河物語』『家忠日記増補』)。この時、家康はこう言い放ったという。

 

「人の捨て城ならば、拾い取るべし」(『三河後風土記』)

 

 岡崎城は松平家の居城。家康の父・広忠が亡くなってから数えれば、11年ぶりに主人を迎え入れたことになる。決して焦ることなく、慎重に慎重を重ねた上、表向きとはいえ、今川家への義理を立てながら居城を奪い返した家康。一大名としての足場を固めていくのは、ここからである。

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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