×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

石川数正による人質交換は偶然の産物だった?

史記から読む徳川家康⑥


2月12日(日)放送の『どうする家康』第6回「続・瀬名奪還作戦」では、松平元康(まつだいらもとやす/松本潤)が、妻の瀬名(せな/有村架純)や子らを取り戻すための、2度目の奪還作戦の様子が描かれた。元康は、相次ぐ家臣らの裏切りにより孤立を深めていた今川氏真(いまがわうじざね/溝端淳平)と、ついに相まみえることとなった。


 

元康と今川氏真がついに対峙

愛知県蒲郡市に残る上ノ郷城跡。上ノ郷城は鵜殿氏が居城とした。正確な築城時期は明らかではないが、鵜殿氏はこのほかにも下ノ郷城、不相城、柏原城といった城を近隣に築城し、それぞれ一族の者を配置していたという。

 本多正信(ほんだまさのぶ/松山ケンイチ)が主君の松平元康に進言した作戦は、三河・上ノ郷城(かみのごうじょう)で行なわれる合戦において、城を守る鵜殿長照(うどのながてる/野間口徹)を生け捕りにし、元康の妻・瀬名らと人質交換をすることで取り戻す、というものだった。

 

 長照の主君・今川氏真は上ノ郷城を支援するため、吉田城に布陣。元康の目の前で処刑するつもりで、瀬名や、その父の関口氏純(せきぐちうじずみ/渡部篤郎)らも同行させた。

 

 一方、前回の作戦で全滅した服部党の子どもや孫たちで新たに編成した忍び集団を引き連れ、服部半蔵(はっとりはんぞう/山田孝之)は上ノ郷城に潜入。追い詰められた長照は自害してしまったものの、代わりに長照の子である氏長(うじなが/寄川歌太)と氏次(うじつぐ/石田星空)を捕らえることに成功した。

 

 石川数正(いしかわかずまさ/松重豊)が氏真のもとに談判に向かった結果、人質は両軍の見守るなか無事に交換。相次ぐ家臣たちの裏切りに苛立つ氏真は、一族をあげて目をかけてきた元康に抱きしめられる瀬名の背中を、じっと見つめていた。

 

暗愚の将・今川氏真の傍証となった人質交換

 

 家康と織田信長が同盟を結んだのは、1562(永禄5)年1月とされる(『武徳編年集成』『岡崎領主古記』)。家康が今川家家臣の鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻めたのは同年の2月というから、松平家中は相当慌ただしい日々だったと考えられる(『三河後風土記』によれば3月)。

 

 家康が上ノ郷城の攻撃を命じたのは、久松俊勝(ひさまつとしかつ)と松井忠次(まついただつぐ)。俊勝はドラマでは久松長家(ながいえ)の名前で登場している。長家は、家康の実母である於大の方が、家康の父・広忠と離縁した後に再婚した相手だ。

 

 城攻めに伴い、忠次は配下の石原三郎左衛門という者に次のような進言を受けたという。

 

「(上ノ郷城は)要害嶮岨(ようがいけんそ)につき、力攻すれば味方の損害も多いでしょう。さいわい、旗本のうちに江州甲賀衆に所縁の者がありますから、甲賀衆を招き、城内へ忍びを入れ置いて攻めるがよいでしょう」

 

 これを受けて忠次は、甲賀(現在の滋賀県甲賀町など)から伴太郎左衛門資家(ばんたろうざえもんすけいえ)を呼び寄せ、忍び働きに熟練した者を集め城内に潜入させた(『三河後風土記』)。潜り込んだ甲賀衆は約280人といわれる。

 

 一方、『寛政重修諸家譜』に記された服部半蔵の履歴によれば、半蔵の初陣は三河の「宇土城夜討の時、正成(半蔵)十六歳にして」とある。宇土城(うとじょう)とは上ノ郷城の別名。半蔵の年齢と照らし合わせると家康の命じた上ノ郷城攻めより5年ほど前のことになってしまうが、どうやらこれは今回ドラマに描かれた1562(永禄5)年の上ノ郷城攻めのことを指していると考えられる。

 

 つまり、上ノ郷城の攻撃には、伴ら甲賀衆と、半蔵ら伊賀衆の忍者たちが加わっていたことになる。

 

 夜半に城内に忍び込んだ忍者たちは、音も立てずに城兵たちを次々に斬って捨てたという。城内は「返り忠(裏切り者)がある」と大混乱になったらしい。

 

 こうしたなか、鵜殿長照は北方の護摩堂に逃走する最中に伴与七郎によって斬り殺された。指示系統が失われた城内に本隊の松平軍が討ち入り、難なく城は陥落。ここで生け捕りにされたのが、長照の息子である氏長と氏次であった(『三河物語』)。なお、『寛政重修諸家譜』によれば、長照の子の名は氏長と藤四郎となっている。

 

 鵜殿氏は、長照の母が今川義元(いまがわよしもと)の妹とされていることからも分かるように、今川氏にとって重臣であり、縁戚だけでなく忠義の面でも固く結ばれていた。そんな長照を討ったのだから、亡父・義元の跡を継いだ今川氏真の家康に対する怒りは尋常ではなかった。今川氏と松平氏は、これで完全に「手切れ」となったのである。

 

 こうなると、駿府(すんぷ)に残されている家康の妻子の処刑は確定したようなものだ。そこで、家康の側近・石川数正は、即座に今川氏の本拠地である駿府に飛んだ。家康の子が殺される際に、せめてそばで殉死をするためだ(『三河物語』)。

 

 ところが、家康の妻子が、やはり今川氏の重臣である関口氏純の娘や孫ということもあり、氏真は処刑を躊躇(ちゅうちょ)していた。そこへ、数正の耳に入ってきたのが、家康に捕縛された鵜殿長照の息子たちの身を氏真が案じている、との情報だった。

 

 そこで数正は、家康の妻子と、鵜殿長照の息子の人質交換を氏真に持ちかけた(『東照宮御実紀』『三河物語』)。

 

 人質交換という手法は、かつて今川氏の軍師であった太原雪斎(たいげんせっさい)が採った策と奇しくも同じである。

 

 すなわち、1549(天文18)年に、織田家の人質となっていた家康と、今川氏が捕らえた織田信秀(のぶひで)の長男・信広(のぶひろ)とを交換し、もともと今川家の人質となるはずだった家康を取り戻した(『三河後風土記』)際に採られた策である。

 

 氏真は渡りに船、と数正の提案に乗った。こうして、家康は人質となっていた自身の妻子を取り戻すことに成功したのである。

 

 当然のことながら、これで家康は名実ともに今川氏から独立したことになる。桶狭間の戦い以降、今川方の城を攻撃することは幾度もあったが、人質の交換をしたことにより、何の憂いもなく今川領を切り取ることができる。『三河後風土記』では「この後は、今川方とはいよいよお手切れと成りければ」とごく簡単に記されているが、『三河物語』では「氏真は、さてさて阿呆か。竹千代様(家康の子)を鵜殿とかえるなどというばか者か」と酷評されている。

 

 なお、この時に人質交換された鵜殿氏長・氏次兄弟は、氏真が没落した後、ともに家康に仕えている

KEYWORDS:

過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

最新号案内

歴史人2023年4月号

古代の都と遷都の謎

「古代日本の都と遷都の謎」今号では古代日本の都が何度も遷都した理由について特集。今回は飛鳥時代から平安時代まで。飛鳥板蓋宮・近江大津宮・難波宮・藤原京・平城京・長岡京・平安京そして幻の都・福原京まで、謎多き古代の都の秘密に迫る。遷都の真意と政治的思惑、それによってどんな世がもたらされたのか? 「遷都」という視点から、古代日本史を解き明かしていく。