「徳川」改姓に見る家康のルーツの謎
史記から読む徳川家康⑪
3月19日(日)放送の『どうする家康』第11回「信玄との密約」では、松平から徳川に改姓した家康(松本潤)が、今川領を切り取ろうとする武田信玄(阿部寛)と密約を結ぶ。それに伴い、家康は妻の瀬名(有村架純)の幼馴染であるお田鶴(関水渚)と戦場で相まみえることとなった。
今川領への侵攻が開始される

静岡県浜松市にある椿姫観音。お田鶴の方は引間城の城主として侍女とともに家康の軍勢と戦い、この地で討死したといわれている。お田鶴の方が「椿姫」と呼ばれるのは、家康の妻・築山殿が椿を植えて供養したことに由来している。
三河守任官のために系図を調べた松平家康は、徳川姓を名乗ることになった。国司の資格を得るためには源氏の末裔であることが必要で、松平氏の古い系図をたどると、かつて松平氏が源氏の流れをくむ「世良田」や「得川」という姓を名乗っていたことが分かったからだ。家康は、徳をもって治めるのが王道という中国に伝わる教えになぞらえて「徳川」を名乗ることにしたのだった。
そんな徳川家康のもとに、甲斐の武田信玄から会談の申し出が舞い込む。信玄は家康に「(今川領の)駿河からは我らが、遠江からはそなたが、互いに切り取り次第」との密約を持ち出した。すべてを見透かすかのような信玄の不気味な迫力の前に、家康は半ば強引に密約を結ばされたのだった。
その後、さっそく武田軍は駿河侵攻を開始。出陣からわずか7日で駿府を制圧した。一方、遠江侵攻を開始した徳川軍は、引間城(ひくまじょう)を攻めあぐねていた。城を守るのが、家康の妻である瀬名の幼馴染であるお田鶴だったからだ。武田軍の駿府制圧の報は、交戦を躊躇する家康に、もはや猶予がないことを知らせるものだった。
そんななか、お田鶴が軍勢を率いて城から打って出てきたため、徳川軍は一斉に攻撃を開始。止める家康の声もむなしく、お田鶴は銃弾に倒れたのだった。
もともと徳川氏は源氏だった?
家康が徳川改姓の勅許を得たのは、1566(永禄9)年のことだった(『創業記考異』「日光東照宮文書」)。
当時、家康は三河国で最大の勢力を誇るようになっており、三河の一豪族の域を超えた存在になりつつあった。一国を治めるには、武力によって服属させるだけでは不十分で、主従関係に相応の大義名分が必要となる。それが改姓の最大の理由であった。
三河一国を合法的に支配するためには、三河守の官職に就くのが正攻法だ。本来なら室町幕府将軍に通すのが筋だったが、当時は足利義輝(あしかがよしてる)が死去して将軍位が空位となっていたため、それもままならなかった。
実際に朝廷に奏請したところ、「前例がない」との理由で却下されている。出自のあやふやな三河の一豪族である松平氏では、三河守任官は認められなかったのである。
そこで家康は、三河にある誓願寺の僧侶・慶深(けいしん)が関白家の近衛前久(このえさきひさ)と親しいことを利用し、慶深を通じて公家に働きかけることにした。
家康は、前久には毎年銭三百貫と馬一頭を、執り成し役の吉田兼右(かねみぎ)には毎年馬一頭を贈ることを約束し、勅許を得られるよう頼み込んだ。これを受けて兼右が公家の万里小路家(までのこうじけ)から探し出した系図をもとに、松平氏はもともと源氏であり、藤原氏になった先例があるとの根拠が見いだされたという(「近衛前久書状」)。
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