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徳川家康は、自らの忖度で正室・築山殿(瀬名)と嫡男・松平信康を自害させた⁉【家康の新説】

徳川家康の「真実」⑦


天下人・徳川家康については、様々な研究な為され、様々な見解が飛び交っている。ここではそのなかでも、若きころに出来事についての新説を紹介する。


 

新説 1

今川家では人質としてではなく、松平家当主として大事に扱われていた

■将来は今川氏真の補佐を期待されていた

 

今川義元
駿河に加えて遠江や三河を勢力圏とし、織田氏の尾張まで侵攻。後に桶狭間合戦に敗れ無念の最期を遂げた。(『地名十二ヶ月之内 五月/今川義元 市川九蔵』東京都立中央図書館蔵)

 

 徳川家康(とくがわいえやす)が、織田、今川両氏の人質であったことはつとに有名である。ところが、このことについては、近年異論が提出されている。

 

 まず、竹千代(たけちよ/以下家康で統一)は、天文16年、父広忠(ひろただ)が織田信秀(のぶひで)に攻められ降伏した際に、織田に人質として提出されたという(異説もある)。

 

 その後、松平氏の要請を受けた今川軍により、信秀の庶子信広(のぶひろ)が捕縛(ぼばく)され、人質交換により駿府に置かれたといわれる。

 

 すでにこの時点で、家康の扱いは、三河衆の中では異例といえる。もし人質ならば、三河吉田城に置かれるべきなのに、わざわざ駿府に招かれているのだ。しかも、弘治2年(1556)頃には、今川重臣関口氏純(せきぐちうじずみ)息女築山殿(つきやまどの)と結婚し、今川親類衆となっている。

 

 実は氏純のもう一人の息女は、北条氏康(ほうじょううじやす)の子氏規(うじのり)の妻になっており、家康とは相婿(あいむこ)の関係にあった。これは、弟がいない今川氏真(うじざね)を将来支えるために、義元が配慮した措置と指摘されている。

 

 また駿府では、家康の祖母於富(おとみ/華陽院殿/かよういんどの、生母於大の方/おだいのかた/の母)や、臨済寺(りんざいじ)で太原雪斎(たいげんせっさい)より教育を受けたといわれ、松平家当主に相応ふさわしい教育が施されていたようだ。

 

 このようにみると、家康は「人質」ではなく、将来の今川親族衆の柱石(ちゅうせき)となるべき貴人(きじん)であり、かつ三河岡崎松平家当主として国を束(たば)ね、今川氏に奉仕することが求められていた重要人物として遇されていたといえるだろう。

 

 このことから、駿府時代の家康の立場について、「人質」ではなく、当初は三河岡崎松平氏の当主としての「参府(さんぷ)」であり、結婚後は、今川親族衆としての「在府(ざいふ)」奉公をしていたと指摘されている。

 

 今川義元(いまがわよしもと)が、幼い家康を駿府に置いたのは、敵との最前線である岡崎に置くことを危ぶんだためだろう。

 

 

新説2

信長からの命令ではなく、自らの忖度で築山殿と信康を自害させた

■徳川家康に影響を与えた2つの要因

 

 天正7年(1579)9月15日、家康の嫡男信康は、遠江(とおとうみ)国二俣(ふたまた)の清瀧寺(せいりゅうじ)で自刃(じじん)した(享年21)。その直前の8月29日には、家康正室築山殿が、浜松郊外の富塚(とみづか)で殺害された(享年不詳、30代後半か40代前半か)。家康はなぜ、妻と息子を処断したのか。この「信康事件」は、徳川氏の歴史の中で、最も謎に包まれている事件である。

 

 通説では、信康は粗暴な性格で、家臣とも折り合いが悪く、さらに正室五徳(おごとく/信長息女)とも不仲で、喧嘩が絶えなかった。そこで五徳は、父信長に信康の不行跡を十二ヶ条に渡って列挙した書状を送った。信長は、酒井忠次(さかいたたつぐ)を呼び寄せ、その内容が事実かを確認したところ、その通りだと返答したため、これはとても放置しては置けないので、ただちに切腹させるよう家康に伝えよ、と命じた。

 

 家康は、悔しさを堪え息子と正室を処断したのだという。これは、『三河物語』によるものだ。

 

 ところが、近年、信康事件の背景には、天正3年4月頃に発生した大岡弥四郎(おおおかやしろう)事件と、その後も燻(くすぶ)る家康ら浜松衆と、信康と岡崎衆の路線をめぐる対立などがあると指摘されるようになった。

 

 大岡弥四郎事件とは、岡崎奉行であった大岡が、石川一族や岡崎衆の中から同調者を募り、武田氏に内通し、岡崎乗っ取りを計画したものだ。この時、信康は知らなかったようだが、築山殿はこれに同調していたらしい。結局、密告者が出て失敗に終わったが、これを契機に、家康と築山殿は不仲となった。

 

 そして、天正6年頃から、信康と五徳の夫婦仲が悪化し、これがきっかけで武田氏への内通事件などが信長の知るところとなってしまった。信康と築山殿のもとには、武田氏から引き続き調略があり、家康は自分の判断で彼らを処罰したと指摘されている。

 

監修・文/平山優

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

 

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