計略に巧みな謀臣・本多正信、正純親子はなぜ徳川家康の懐刀になれたのか?
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第4回】
親子二代で家康の政治ブレーンであった本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)。徳川四天王など武功派家臣に比べ、軍事的な能力が乏しい2人はいかにして家康の側近となり、権勢を誇ったのか?

本多正純の居城・宇都宮城
2代将軍徳川秀忠の側近として権勢を誇った本多正純だが、政敵の陰謀に屈し失脚した。写真の宇都宮城が「宇都宮天井事件」事件の舞台となった。
三河生まれの本多正信(1538~1616)の生家は、代々松平氏に仕えてきた。正信も少年の頃から家康に仕えたが、三河一向一揆では、門徒側に加わったことから一揆鎮圧後に追放された。だが、武功はなくても頭脳があることを見抜いていた家康側近の武功派・大久保忠世(おおくぼただよ/忠隣/ただちか/の父)が斡旋(中に入って)して、再び家康に仕えることになった。
正信が放浪中、正信の家族の面倒は、寛容で包容力に富んだといわれる忠世が見続けた。正信は、帰参後の最初の戦い・姉川合戦に槍を持って参戦した。名誉挽回と気負い込んで敵中に攻め入ったが、戦い方さえ知らず、危うく一命を落とすところだったが、同僚によって救われた。
このあたりから正信は、家康の政権づくりを目指していた可能性がある。その企画・制作者の立場が正信の仕事になった。言い方を変えれば、正信こそ嫡子・正純(1565~1637)とともに、生涯を家康と徳川政権の樹立と発展にかけた人物であった。
武功の一片もない正信が、従五位下・佐渡守に叙任するまでになったのは、家康が政治的な才能を見込んだためであった。家康が5ヶ国領有時代から関東移封時代には、正信のような「政治感覚」に長けた家臣・側近はいなかった。いずれも武功派ばかりであり、家康には物足りなくなっていた部分を補う形で正信は、行政的手腕を発揮して家康の側近となっていった。
家康の関東入国時には、関東総奉行として江戸の町づくりや領国政策をリードした。これらの功績に対して家康は、相模(さがみ)・玉縄(たまなわ)1万石を与えただけであった(1説には、家康はもっと多くを与えようとしたが、正信自らがこれ以上の石高を不要として断ったもいう)。
後に加増されたが、それでも終生玉縄2万2千石の石高は変わらなかった。その代わり、正信に与えられた権力は絶大であり、正純とともに江戸幕府発足当時からそのすべての部分に参画した。そして、家康の側近として政務すべてを把握する立場に居続けた。
慶長19年(1614)の大久保忠隣の失脚にも正信は大きく絡んでいる、というよりも「画策した」とされる(諸説あり)。
いずれにしても、忠隣は武功派であり行政にも明るい存在であって、家康政権の中の武功派のリーダーであったから、誰もが忠隣の失脚を正信の暗躍と見た。忠隣の父・忠世には、放浪中の家族の面倒、家康への取り成しなど世話になりながらの、息子・忠隣の失脚を企(くわだ)てたことで、正信は未来永劫に家康家臣団から誹謗中傷されることになる。
正信は、元和2年(1616)4月に家康が亡くなると、その2カ月後の6月に後を追うように病死する。79歳であった。
正信とともに徳川初期の幕政に影響を持った嫡子・正純は、秀忠(ひでただ)付きの側近となっていたが、その権勢に反感を抱く徳川家臣団は多かった。結局、元和8年(1622)改易(かいえき/知行没収)となる。いわゆる「宇都宮天井事件」などが噂されたが、そうした謀叛ではなく、失政による改易であった。