三河時代のブレーンだった 本多重次・高力清長・天野康景
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第1回】
三河の一大名から、豊臣政権下の筆頭幹部(5大老)、さらには天下制覇を目指し、征夷大将軍に上り詰めた徳川家康(とくがわいえやす)。その天下制覇への道を陰に陽に支えたブレーンたちがいた。家康の若き日から大御所時代まで、その時代ごとに多士済々の人材に焦点をあて、その人物像と数々の業績に迫る。

徳川家康に仕えた20人の主要家臣団を描いた絵画。これ以外にも多くの作品があり、描かれた武将、その数も異なる。「徳川二十将図」出典/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) など
永禄7年(1564)、三河一向一揆を収拾した家康は、念願の東三河制圧に成功した。東三河の家老には酒井忠次(さかいただつぐ)を置き、西三河のトップに石川数正(いしかわかずまさ)を据えた。その翌年には、三河領内の民政や訴訟を担当する3奉行を設置した。この3奉行には、本多重次(ほんだしげつぐ/1529~96)・高力清長(こうりききよなが/1530~1608)・天野康景(あまのやすかげ/1537~1613)が起用された。いずれも松平一族ではなく、家康家臣団からの抜擢であった。
3人の世評は「仏・高力、鬼・作左、どちへん無しの天野三兵」と謳(うた)われるほどの称賛を受けた。
本多作左右衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)は、三河生まれ。7歳の時から家康の祖父・清康(きよやす)に仕え、次いで父・広忠(ひろただ)、家康と3代に渡って仕えてきた。三河一向一揆では、家康側に付いて戦った。剛直・果敢の人柄でその名前から「鬼作左(おにさくざ)」と評された。3奉行となってからも、短気ではあるが私心がなく決断力に富み、誰にも同じように対処したので家康からも領民からも信頼された。
天野康景も三河生まれ。家康が駿府・今川氏の人質として赴く際に小姓として仕えている。三河一向一揆でも、自らの一向宗を捨て家康側について一揆鎮圧に当たった。公平無私の人物であったところから「どちへん無し」と言われた。「どちへん」とは「彼是偏」と書く。偏りがない、という意味らしい。天野の民政は、寛大で思慮に富んでいたという。ただし、その後の出世はかなり遅く、関ヶ原合戦(1600)の後にやっと駿河・興国寺城主1万石となった。
高力清長も三河生まれ。6歳の時に父を失い、以後は叔父に育てられた。「仏・高力」と呼ばれたのは、家康側として戦った三河一向一揆の際に、寺が所持していた仏像や経典・経巻を保護して、和議の後に赦免された者たちにそれを変換してやったことから「仏」の高力、ということになったらしい。だが、3奉行に任じられてからも、温厚で慈悲深く、その異名「仏」通りの民政を行って民衆の支持を集めた。豊臣秀吉(とよとみひでよし)からも人柄を愛されて、一時は「豊臣」姓を与えられ、従5位下河内守に叙任されている。家康の関東入国後は、武藏国(むさしのくに)・岩槻(いわつき)城主となったが、浦和郷1万石の年貢を1石も自分のものに納めず、すべて江戸に送るという実直さでも知られる。
この3奉行の人選は、家康らしい配慮に満ちたものとして賞讃されている。