徳川家康の祖父である英傑「松平清康」の悲劇と受難が続く松平氏
家康の先祖「松平氏・国盗り物語」【第3回】家康の祖父・松平清康と守山崩れ
家康の祖父である松平清康(まつだいらきよやす)は西三河の支配を磐石なものとし戦国武将として基盤を築いた。ところが尾張・織田家との戦いにおいて、予想もしていなかった悲劇に見舞われる…。

愛知県岡崎市・大林寺にある松平清康の墓。同寺には家康の父、松平広忠の墓もある。
駿河・今川の客将・伊勢新九郎(いせしんくろう/北条早雲/ほうじょうそううん)の1万に攻められたが、これを撃退した松平長親(まつだいらながちか)だったが、この時点で三河の大半を松平氏が掌握していた。だが、同時に三河・松平は東の今川、西の織田による侵略の脅威にさらされ続けることになる。
長親の跡を相続したのは松平6代(得川14代)・信忠(のぶただ)は、これまでの松平当主の代々と違って、家臣を顧みることのない当主であった。人間性も良くないうえに、軍事的にも凡庸であり、松平得臣限る家臣も徐々に増えた。特に外様(譜代ではなく、各地の小豪族など有力者たち)は、出仕しなくなった。松平一族も信忠を見限る者が続出した。三河の大半を領土としていた松平氏は、安城(安祥城)1城をやっと保くらいの状態にまで落ちていた。
そこで、信忠の弟・信定(のぶさだ)を当主として交替させよう、という動きが出た。結果として大きな内訌(ないこう)になる直前に、信忠は隠居し、嫡男の清康13歳を後継者(松平7代・得川15代)とした。叔父・信定はまだ若い甥の清康を支えた。清康になって、松平一族も家臣団もまとまりを見せ、徐々にではあるが、勢力を回復していった。居城も安城から岡崎に移した。清康は父・信忠に全く似ていない英傑であり、先祖伝来の所領・西三河のほとんどを回復して勢力下に置き、さらには東三河も支配下に入れた。
清康が結婚した相手は、尾張の住人・青木某(それがし)の娘・お富(後の源応尼/げんおうに)であった。お富は1度、尾張小川城主・水野忠政(みずのただまさ)に嫁ぎ、1女3男を生んでいる。この1女が家康の生母・於大(おだい)であった。お富が清康との間に生んだのは1男1女であったが、清康の後継者・広忠(ひろただ)は、清康が別の女性に生ませた男子であった。この広忠と於大が、後に結婚して家康を生むことになる。
天文14年(1535)12月、清康は今川の援軍を加えた1万で尾張に侵入した。清康の時代には、それほどの大勢力に松平氏はなっていたのだった。いわば「三河の国盗り物語」は、第2章ともいうべき時代に入っている。だが、この尾張侵攻の過程で事件が起きる。
1万の兵を率いて尾張に侵攻した清康は、織田信秀(のぶひで/信長の父)の弟・信光(のぶみつ)が守る春日井郡守山城を攻めた。尾張森山(守山)に本陣を敷いた。噂が流れされた。「清康の叔父・信定が背き、家臣の阿部大蔵(あべのおおくら)がこれに加担している」という噂であった。多分に、織田側が流したデマ・攪乱(かくらん)の類であったろうが、滞陣中であった阿部大蔵の息子・弥七郎(清康側近)は父・大蔵から「こんな噂があるが、万が一のことがったとしても自分は事実無根だ。そのようなことがあっても父の無実を信じろ」と知らされていた。
その時、陣中に暴れ馬があって、騒ぎになるという騒動が起きた。弥七郎は、父・大蔵が成敗されたのではないか、と思い違いをして清康を殺害してしまった。安倍氏は、酒井氏、大久保氏などと並んで岩津以来の譜代の臣であり、大蔵は清康を善く支えてきた人物でもあった。
清康の横死(おうし)は、松平軍1万を雲散霧消(うんさんむしょう)とさせた。今川勢も帰参する。清康の祖父・長親は存命であった。この時とばかりに、岡崎城を攻める織田信秀と交渉した長親は、信定を改めて岡崎城主(つまり松平家の当主)とする約束で織田軍を撤兵させた。信秀はこの時「自分と近い間柄の松平信定」としており、こうした事実からも清康謀殺の背後には信秀がいたものと思われる。
清康謀殺による松平の総崩れは「守山崩れ」と呼ばれる。この「守山崩れ」の際に10歳だった清康の子・広忠は、岡崎を逐(お)われ、伊勢・駿河などを流浪し、結果として今川義元(いまがわよしもと)の支援を受けて、再び三河に入ることになる。皮肉にも、流浪の広忠に従って守りきったのは、清康を殺した弥七郎の父・阿部大蔵などであった。
「守山崩れ」の2年後の天文5年(1536)、今川氏の支援で三河に入った広忠は、翌年には大久保忠俊(おおくぼただとし)らの手引きで岡崎城に戻れた。家臣団の多くは広忠を支持し、岡崎城を預かっていた大叔父の信定も広忠に従った。広忠は於大と結婚した。於大の実家・水野家と松平家の連携を深めるための結婚であった。そして、天文11年(1542)12月26日、広忠の嫡子として竹千代(家康)が誕生する。
しかし、水野家(於大の兄・信元が後継)は織田氏に属し、今川に属した広忠は、於大を離別する。家康は僅か2歳で母を失うことになる。そして、6歳で織田信秀に人質となり、さらには今川義元の人質になる家康の少年時代が始まるのである。
家康の父・広忠は天文18年(1649)3月、没する。24歳とされる。死因については、病死説と家臣による殺害説とがある。殺されたとする説でも理由は諸説ある。新しく召し抱えた側近によるものという説と、譜代の臣による謀殺という説とである。いずれにしても、父・広忠死亡の時、家康は織田の人質として尾張にいたのである。