松平家を急拡大させた「松平信光」と18松平家の三河侵攻作戦
家康の先祖「松平氏・国盗り物語」【第2回】松平信光と18松平家
三河(みかわ)山間部の弱小勢力でしかなかった松平氏は、家康の6代前の当主・松平信光(まつだいらのぶみつ)の時代、積極的な三河南進作戦を実施。その勢力を急拡大させた。松平氏が台頭する戦国初期の三河の歴史を読み解く。

松平氏発祥の地である奥三河。山間の地形ゆえ農業生産性が低く、勢力拡大をはかるためには肥沃な土地のある三河南部への進出が必須であった。写真/アフロ
三河湾まで進出した松平信光(松平氏11代・家康の6代前当主)は、精力絶倫と言われた人物で、生涯に48人もの子女をもうけたといわれる。信光は、征服した三河の諸地域に大勢の息子をあてがって、いわゆる松平7家を分立させた。
信光が三河湾にまで進出する以前に住んでいた松平郷は山間の僻地だった。巴川(ともえがわ)上流の200メートルほどの山々が重なり合っている地域に、ほんの小さな平地が開けている。その平地に1本の松の大木があった。「松のある平地」であり、松平の姓の語源になった。江戸時代になってからでも石高は250石。その程度の小さく狭い場所であった。
親氏(ちかうじ)と信光は、川に沿って西に下る道を選んだ。そこには三河の台地があった。さらにそこからは、三河湾に連なる肥沃(ひよく)な大地が南に広がっているからであった。小天地であった松平よりも、三河湾を臨む沃野を手に入れたい。松平氏は、そう考えた。
このようにして三河湾の進出した信光は次々に、庭に花を植えるように征服した各地に息子たちを配した。最初7家であった松平分家は増え続けて、家康の祖父・清康の時代までに14松平家(それぞれ領地の名前を姓として、宝飯郡の竹谷・形原・長沢・御井、額田郡の大草・能美・深溝、加茂郡の大給・滝脇、碧海郡の福釜・桜井・藤井・三木、幡豆郡の東条)に分家した。これが、後に徳川家康の親戚筋を総称して「18松平」と呼ばれるようになるのだった。
信光は、男子を征服地の領主とし、女子は近辺の有力者に嫁がせるなどして、さらに勢力を拡大した。松平氏の凄まじさは、山間の松平郷から出たにもかかわらず、信光の時代には西三河の3分の1を支配下に置いたことであった。ある意味で、信光こそ松平氏、ひいては徳川家の原点にいるような人物であった。
信光の跡を継いだのは、松平三河氏としては4代(得川氏としては12代)親忠(ちかただ)であった。親忠は、信光の3男であったが、松平本家を相続している。まだこの時代には「嫡男が家を継ぐ」という不文律は成立していなかったものと思われる。優秀であれば嫡男でなくともよい、ということ以上に、嫡男と父親とは年齢が近く、意見がぶつかる可能性や、親子喧嘩による内訌(ないこう)の可能性もあった。このために、年齢の離れた(父親の言うことに耳を傾けられる)3男・4男・5男などが本家継承の対象になっていったようである。
甲斐・武田氏でも、代々、父子で争ってきたが信虎の時代には嫡男・晴信(はるのぶ/信玄/しんげん)ではなく、弟・信繁(のぶしげ)を後継者に据えようとして駿河に追放された例などがある。
親忠は、額田郡鴨田郷(ぬかたぐんかもだきょう/愛知県岡崎市)に大樹寺を建てた。信光も岩津や安城などにいくつもの寺院を建てているから、松平氏は代々仏教に深く帰依している家柄であったようだ。寺伝によれば文明7年(1475)の創建というから、応仁の乱がやっと収まり掛けた頃のことであった。開山は、親忠が帰依していた浄土宗の高僧・勢誉愚底(せいよ・ぐてい)であり、数多の戦さで死んだ人々の鎮魂のために創建されたという。
『大樹寺日記』によれば、「成道山大樹寺」という名前を付けたのも開山の愚底であり、親忠が不審に思って由来を尋ねた。「大樹というのは、唐名(中国古代の名前)では、将軍を表すものだ。わが松平家の菩提寺の寺号とするのはどういう訳か」。愚底は答えた。「その通り、大樹とは唐名で将軍を示します。将来、この寺が将軍家の菩提寺となることを願って大樹寺と名付けたのです」。親忠は納得したという。
江戸時代、5代将軍・綱吉(つなよし)の命令で編纂された『武徳大成記』では、もっと話は積極的になる。親忠は松平家の再興の祈祷と先祖菩提のために寺を建立して大樹寺と名付けた。理由を「大樹は将軍の別号、子孫が将軍となって、天下を治める前兆とする。親忠は後世のこと(家康が将軍になる)までも知って、このように名付けたのだ、と世の人々は言い合った」と記している。
ただし、これらの話はいずれも「後付」であって、大樹寺の寺号について本当のところは分からない、という。考えてみれば分かるが、この時代の松平氏は、とても天下の覇者・将軍の座を夢見ることさえあり得ない、たかだか1千人前後の将兵を動かし得る程度の小勢力であったからだ。
親忠の跡を継いだ5代・長親(ながちか)の時代、永正3年(1506)8月、駿河・今川家の客将・伊勢新九郎(後の北条早雲/ほうじょうそううん)が1万余騎の大軍で岡崎に入り、大樹寺を本陣として松平氏を攻撃した。松平宗家の岩津城、支城・安城(安祥)城にはそれぞれ500ずつの兵力が入っていた。1千の松平軍は奮戦して、結果として烏合(うごう)の衆であった今川勢を駆逐する。松平の三河国盗り物語は、次代の勇者たちに持ち越されるのである。