出世にとらわれた戦国武将・佐々成政の悲惨すぎる最期
鬼滅の戦史125
織田信長の名臣・佐々成政(さっさなりまさ)。信長の死後、見下していた秀吉に敗れその配下となるが、屈辱に耐え出世のために奮闘していた。あるとき側室・早百合に不倫疑惑が持ち上がると、成政は真偽も確かめず、彼女を木に吊るして惨殺。恨みを抱いて死んだ早百合が怨霊となり、成政を悲惨な最期へと導いたという。
■信長に選ばれたスーパーエリート・佐々成政

佐々成政が早百合を殺害する場面(国際日本文化研究センター所蔵)
佐々成政といえば、もともとは織田信長の家臣で、選ばれし10人である親衛隊・黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員。そこから国持大名にまでのし上がった、スーパーエリートともいうべき武将であった。
信長の死後は柴田勝家に与し、秀吉と対決。戦いに敗れて降伏したものの、今度は家康に寝返って、懲りもせず秀吉に反抗している。家康が秀吉と和議を結んだ際などは、真冬にもかかわらず、雪深い越中から浜松へ、厳しい山越えを強行。家康に直談判して、秀吉との縁を切らせようとしたほどであった。
ただし、この「さらさら越え」と呼ばれた強行策も、結果として家康の同意を得ることはできず、同行の家臣の命を危険に晒しただけであった。成政の悔しさはひとしおであっただろう。
■木に吊るされて切り刻まれた早百合
さて、本題はここからである。虚しく帰城した成政を待ち受けていたもの、それが側室・早百合の不倫疑惑であった。家臣・竹沢熊四郎と、不義密通を働いていたというのだ。
これは成政の寵愛を独占する早百合に嫉妬した他の側室たちが、彼女を陥れようとして流した「でまかせ」であった。ところが成政は信じてしまった。おまけに、「腹の子が熊四郎の子だ」との噂まで本気にしてしまう。
激怒した成政は、真偽を確かめる間もなく熊四郎を即座に殺害。そればかりか、可愛さ余って憎さ百倍、寵愛していたはずの早百合の髪の毛を引っ掴んで神通川の辺りまで引き摺り、榎(えのき)の木に括り付けて、鮟鱇(あんこう)斬り」にしてしまったというから、何ともおぞましい。アンコウを切り裂くように、吊るしたままズタズタに切り裂いたのだ。
早百合も黙って殺されたわけではない。形相も凄まじく、「おのれ成政、この身は此処に事罪せらるるとも、怨恨は悪鬼となり、数年成らずして、汝が子孫を殺し尽くし、家名断絶せしむべし」と、呪いの言葉を吐いて絶命したのだという。
成政はさらに、早百合の一族18人の首まで撥ねたとも伝えられている。ただし、一族の殺害に関しては、成政の後に越中を支配した前田氏が成政の名を陥れるために盛った話とも見られるため要注意である。
ともあれ、誤解によって惨殺された彼女が化けて出たとしても不思議ではない。彼女の死後、毎夜のように、その木の周辺に、生首を下げた悪鬼がさまよい出たのだとか。その舞台となった榎の2代目とみなされる一本榎が、今も富山市磯部町の堤の上に残されている。
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