聖武天皇の娘は女性皇族初の怨霊になっていた!?
鬼滅の戦史124
崇徳上皇や早良親王、菅原道真など、怨霊となって祟りを為したとされる皇族は多いが、女性皇族初と見られるのが、井上内親王(いのえないしんのう)である。夫・光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃されたばかりか、我が子まで廃太子とされてしまった。のちに続出した不幸な出来事が、当時の人々には「自らを陥れた者に祟りを為さん、との思いのまま死んでいったに違いない」と、この母子の祟りとして信じられたようである。その経緯とは、いったいどのようなものだったのだろうか?
■女性皇族初の怨霊・井上内親王

井上内親王を祀る奈良の御霊神社
日本史上最恐の怨霊といえば、生きながらにして天狗になったとされる崇徳上皇をおいて他にない。保元の乱に敗れて讃岐へと配流になったことで恨み骨髄。ついには、「日本一の大天狗になって、天皇を引きずり下ろしてやる!」と叫んだというのだから、穏やかでない。
しかし、その崇徳上皇が没した頃より400年も前にも、すでに怨霊として恐れられていた女性がいたことをご存知だろうか? それが、今回紹介する井上内親王である。
実は、恨みを抱いて死んだ人が怨霊となって祟ると信じられるようになったのは、この8世紀頃からのこととか。それまで疫病などの災害は、疫神あるいは鬼神といった、いわば神の領域にいる「目に見えない恐ろしいもの」によるものと考えられていたようだ。
ちなみに怨霊の皮切りは、藤原四兄弟に陥れられて首を括って自害した長屋王と見られている。女性皇族初の怨霊としては、この井上内親王の名をあげるべきだろう(長屋王とともに首を括った吉備内親王との説もある)。
■「光仁天皇を呪詛した」と疑われ廃后
父は第45代の聖武天皇で、母は夫人の県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)。その第一皇女として誕生したのが、この井上内親王であった。
11歳の頃に伊勢斎宮に選ばれたものの、弟の安積親王(あさかしんのう)が亡くなったことで任を解かれて退下。その後、光仁天皇(白壁王)の妃となり、酒人内親王(さかひとないしんのう)や他戸親王(おさべしんのう)を産んだ。ただし、長男は37歳頃、次男は45歳頃の高齢出産。特に次男については、極めて稀というべき年齢での出産であった。
夫である光仁天皇が770年に即位したその翌年、我が子である他戸親王が立太子されているから、この頃の井上内親王は順風満帆、何不足ない幸せな日々を過ごしていたに違いない。
ところが、不幸は突如やってきた。なんと彼女に「夫の光仁天皇を呪詛した」との嫌疑が掛けられ、息子ともども、廃后・廃太子とされてしまったのだ。彼女としては、晴天の霹靂というべき出来事だったはずである。
この頃の光仁天皇の年齢は、すでに64歳前後。当時としては高齢である。我が子は皇太子になっているわけだから、わざわざ呪詛して夫を殺さなくとも、いずれ即位することは目に見えていたはず。つまり、呪詛する必要などなかったのだ。
それにもかかわらず、妻である井上内親王が、呪詛による大逆を冒したと見なされてしまった。そうして次に皇太子に建てられたのが、光仁天皇と高野新笠(たかののにいがさ)との間に産まれた山部親王(後の桓武天皇)が皇太子であった。他戸親王を追い落とすための、山部親王と藤原式家による計略と見なすのが自然だろう。
その後、光仁天皇の同母姉の難波内親王が亡くなると、これもまた井上内親王の呪詛のせいだとして、母子ともども庶人に落とされた。さらに、大和国の没官の邸に幽閉されてしまったのだから、無念だったに違いない。
幽閉から1年半余り経った775年5月30日、井上内親王・他戸親王が急逝。死因が明かされることはなかったが、同じ日に母子二人が同時に亡くなるなど、どう考えても不自然である。殺害されたか、自害に追い込まれたかのどちらかとしか考えようがない。
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