汚名を着せられて無念の死を遂げた「橘逸勢」の苦悶
鬼滅の戦史118
空海・嵯峨(さが)天皇とともに、三筆の一人に数えられる名書家・橘逸勢(たちばなのはやなり)。権勢(けんせい)など縁もないような人生であったにも関わらず、その晩年、突如、謀反の張本人として捕らえられた挙句、移送中に亡くなってしまった。もちろん、恨みは頂点に達し、祟って出たと信じられている。いったい、どのような人生だったのだろうか?
学問を諦めたことで、書の達人に

京都市中京区姉小路通にある橘逸勢邸址。邸宅跡には逸勢の死後、橘逸勢社が建てられていたが焼失した。
橘逸勢といえば、最澄(さいちょう)や空海(くうかい)らとともに唐に渡った遣唐使(けんとうし)の一員である。ただし、語学が苦手ということもあって、学問の方は早々に放棄。書と琴を学んで帰国したといわれている。それでも、その後は嵯峨天皇や空海と並ぶ三筆に数えられるほどの名書家として知られるようになったのだから、何が功を奏するかわからない。
ただし、出世は遅れた。但馬(たじま)権守という、但馬国の副国司に相当する肩書きを得たのが、60歳もかなり近くになってから。遅咲きというべきだろう。かつて左大臣をも務めた橘諸兄(たちばなのもろえ)のひ孫ということを踏まえれば、そうとしか言いようがないのだ。
逸勢が生きた頃の政を牛耳っていたのは、いうまでもなく藤原氏。特に人臣初の摂政の地位にまで上り詰めた良房(よしふさ)の全盛期であった。対して、この頃の橘氏の勢威は、かつての栄光に比すべくもなかった。それでも、逸勢の従姉妹にあたる嘉智子(かちこ/檀林皇后/だんりんこうごう)が嵯峨天皇の皇后となって、2男5女をもうけたというのが、せめてもの救いだったというべきだろうか。
皇太子の身を案じての行動が裏目に
ところがこの御仁、但馬権守に任じられたものの、程なく病を得て、出仕することもなくなったようである。余生を静かに暮らしたいと思ったのかどうかはともあれ、表舞台から姿を消したようであった。
それにもかかわらず、承和9年(842)7月17日、突如仁明(にんみょう)天皇の命によって、盟友の伴健岑(とものこわみね)と共に捕らえられてしまった。罪状は、謀反。嵯峨上皇亡き後の動乱に備えて、皇太子・恒貞(つねさだ)親王を東国に避難させようと画策したことを謀反と捉えられたからである。身を引いたのが見せかけだったのかどうかはわからないが、政に何らかの形で、関わり続けていたようであった。
ともあれ、皇太子を東国に避難させるにあたって、平城(へいぜい)天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王に相談を持ちかけた。これが、そもそもの間違いの元であった。相談を受けた親王は、これを逸勢の従姉妹・橘嘉智子に密書を送って報告したのである。嘉智子が逸勢を説得してくれることを期待してのものであったと信じたいが、それも定かではない。
そして、不可解なのが、この時の嘉智子の行動であった。彼女は、事の重大さに驚いて慌てたのか、逸勢を説得するどころか、当時中納言であった藤原良房に相談してしまったのである。それが、どのような事態を招くことか、わからずにしたことなのか、わかっていながらあえてしたものかはわからない。
それでも、良房にとってみれば、棚からぼた餅ともいうべき情報であった。自己の勢力拡大に活かすことができるものだったからである。現皇太子・恒貞親王にも罪があるとしてこれを廃し、藤原氏の血が流れる道康親王(仁明天皇と藤原順子の子)を新たに皇太子として擁立するチャンスを得たわけだから、飛び上がらんばかりに喜んだに違いない。
- 1
- 2