謀叛人として討たれた藤原広嗣の「復讐」伝説
鬼滅の戦史114
奈良時代に橘諸兄(たちばなのもろえ)によって太宰府へと左遷された藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)といえば、謀反人に仕立て上げられて、ついには殺害されてしまった御仁である。恨みを募らせた広嗣は、後に悪霊となり、玄昉(げんぼう)の前に祟(たた)り出たという。いったいどのような復讐を行ったというのだろうか?
権力の中枢から外された広嗣の恨み

玄昉の首塚であると言い伝えられている、南都鏡神社(奈良県奈良市高畑町)近辺の頭塔。
良かれと思って政権を批判し、それが元で謀反人に仕立て上げられてしまったと仮定しよう。その時、一軍を率いることができる地位にあったとしたら、黙って罪を償うことができるだろうか?
これから紹介する御仁にはそれができず、思わず一軍を動かしてしまったことで、本当の反乱者になってしまった。その挙句、捕らえられて殺害されるという不運な人であった。それが藤原広嗣、かつて絶大な権力を誇った藤原不比等(ふじわらのふひと)の孫である。
不比等の子として権力の中枢にあった藤原四兄弟、その4人が相次いで天然痘の流行によって亡くなったのが天平9年(737)のこと。これによって、藤原氏の勢力が低下したことはいうまでもない。
代わって政権の中枢に躍り出たのが、葛城王(かつらぎおう)こと橘諸兄であった。この諸兄が唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)や僧の玄昉らを重用したことで、広嗣は中央政界から外され、太宰府へと追いやられてしまったのだ。親新羅政策を推進する真備らにとって、反新羅派の広嗣が邪魔だったことも一因だったに違いない。
太宰府の兵1万を動かして挙兵
ともあれ、広嗣はこれを左遷人事と捉えて彼らを恨んだ。しかもこの頃、自然災害が相次いでいた。この元凶を真備と玄昉の二人の悪政に起因すると、広嗣は本気で考えていたのかもしれない。
そのまま黙っていることができず、とうとう彼らの更迭を朝廷に働きかけたのである。玄昉が光明皇后(こうみょうこうごう/『今昔物語集』等による)あるいは、聖武(しょうむ)天皇の母・藤原宮子(ふじわらのみやこ/『扶桑略記』等による)と不貞関係にあったことを見過ごせなかった点も、影響していたようである。
しかし諸兄は、この広嗣の上奏を自らへの批判と捉えたばかりか、謀反と見なしてしまった。聖武天皇までもが諸兄の意を受けて、広嗣に召喚の詔勅を発したのである。この時の広嗣の心持ちが、どのようなものであったのかは計り知れないが、まさか自分が謀反人に仕立てられるとは思っても見なかったであろう。
ただし、この段階で弁明すれば、まだ再起の可能性があったかもしれないが、たまたま太宰府の手勢1万を動かせる立場にあったことが災いしたようである。結果的に、兵を動かしてしまったのである。
彼が本気で軍の力によって政権を覆せると考えていたとは思いがたいが、おそらく魔が差したのだろう。大野東人(おおののあずまひと)を大将軍とする追討軍を前にして、「朝命に反抗しているわけではない」と、行動に反する弁明に終始しているところに、その真意が表れている。
この戦意が有るのか無いのかわからぬ統率者の元から、投降者が相次いだことはいうまでもない。結局、戦いに敗れて新羅へと逃げようとしたものの、強風によって五島列島へと押し戻されて捕らえられ、ついには斬られてしまったのである。
悪霊となって玄昉に祟り出る
おそらく広嗣は、良かれと思って上奏したのだろう。それが裏目に出て、あれよあれよという間に謀反人に仕立て上げられて殺されてしまった。恨み骨髄のまま死んだに違いない。そしてもちろん、祟って出た。その恨みは、玄昉に向けられたようである。
このあたりの様子は、『今昔物語集』が詳しい。そこには、「広嗣が悪霊となって玄昉に復讐した」とはっきり記されているのだ。時と場所が記されていないのが気になるが、ともあれ「やにわに玄昉を掴んで空へと上り、その体をバラバラに引き裂いて地上に落とした」というから何とも凄まじい。
これを恐れた聖武天皇が、陰陽道(おんみょうどう)に通じていた吉備真備に命じて、広嗣の霊を慰めさせたという。真備が具体的にどのような術を用いたのかには言及していないが、陰陽道にまつわる何らかの術を用いてこれを鎮めたようである。
また、佐賀県唐津(からつ)市にある鏡神社の二ノ宮は、広嗣の霊を鎮めるために創建されたものとか。奈良市にある南都鏡(なんとかがみ)神社も、玄昉の弟子の報恩(ほうおん)が唐津の鏡神社を勧請(かんじょう)して祀(まつ)ったものである。
気になるのが、その近くにある頭塔で、玄昉の首塚であると言い伝えられている。広嗣が悪霊となって玄昉の体を引き裂いたという怨霊伝説を彷彿とさせる伝承地だけに、見過ごすことができないのである。