当麻曼荼羅を一晩で織り上げた「中将姫」伝説の謎
鬼滅の戦史113
奈良時代の貴族であった中将姫(ちゅうじょうひめ)とは、約4m四方もの当麻曼荼羅(たいままんだら)を一晩で織り上げたという逸話で知られる女性である。彼女はその織物を通じて、いったい何を伝えようとしていたのだろうか?
謎めく中将姫と当麻曼荼羅

當麻寺(奈良県葛城市當麻町)にある中将姫の石像。寺内には姫ゆかりの品が多く遺され、一部は公開されている。
中将姫といえば、奈良時代に「当麻曼荼羅」という名の蓮糸の織物を一晩で織ったとして知られる女性である。
当麻曼荼羅とは、中央に阿弥陀仏(あみだぶつ)を、左右に観音さまと勢至(せいし)さま、周囲にお釈迦さまにまつわる説話が描かれるという、仏の教えそのものを一枚の織物に託したもので、約4m四方もの大きな織物である。それをたった一人で、一晩で織り上げるなど現実には有り得ないから、伝説上のお話であることはいうまでもない。
その主人公である中将姫自身も謎めいている。父とされる右大臣・藤原豊成(ふじわらのとよなり/藤原長者)が実在の人物であったことは確かではあるが、母が誰であったかは諸説あって定かではない。実在が怪しまれる品沢親王の娘あるいは尚侍(しょうじ)の藤原百能(ふじわらのももよし)だったともいわれる。そもそも中将姫自身が、実在したかどうかさえ疑われているのだ。
ただし、当麻曼荼羅は実在する。奈良県葛城市當麻(かつらぎしたいま)にある當麻寺が所蔵するもので、国宝に指定されるほどの名品である。実際には、言い伝えられるような蓮糸(はすいと)製ではなく絹糸で織られたもので、しかも大陸製とみなされることもある。
この伝説が、果たしてどこまで史実を反映しているのかは計り知れず、一人の存在したかもしれない儚い女性を偲ぶ後世の人々の思いが、そのような物語を作り上げていったとも考えられる。ともあれここでは、伝説として描かれた中将姫なる女性がどのような人物であったのかから見ていくことにしたい。
仏の導きによって一夜にして織り上げた当麻曼荼羅
伝説によれば、中将姫が生まれたのは天平19年(747)のことであった。母は前述のように、いずれの女性だったのか定かではないが、5歳の頃に死別したとか。その後、父・豊成が後妻を迎え入れたことで、継母に虐(いじ)められるというお決まりの展開を迎える。
ところが恐ろしいことに、この継母の虐めは止め処なく、ついには娘の命さえ狙うようになってしまったというのだ。それでも、娘の殺害を命じられた配下の嘉藤太が、娘を屋敷から連れ出して宇陀(うだ)のひばり山へと向かったものの、死に臨んでも健気さを失わず、一心に経を読む娘の姿に感銘を受けて、殺害を断念。密かに屋敷へ連れ帰ったとか。
それから2年後の娘が16歳の頃、西方浄土の阿弥陀さまにお仕えしたいとの思いが募って出家の意志を固め、奈良県と大阪府の境にそびえる二上山へと向かったとも。
雄岳(517m)と雌岳(474m)と小ぶりながらも2つの峰が連なる美しい山で、いにしえの都・飛鳥から見れば、ちょうど2つの峰の間に夕日が沈むところから、いつしか西方浄土の入り口とまで表されるようになったところである。その山麓に鎮座する當麻寺は元来女人禁制であったものの、ひたむきに生きようとするか弱き中将姫に心打たれた当時の別当・実雅和尚(じつがおしょう)が、禁制を解いて彼女を迎え入れたというのだ。
ここで尼となって法如(ほうにょ)という名を授かり、一心に祈りを捧げる。と、ある日、一人の老婆が現れ、その導きによって蓮の糸を紡ぐことになったというのだ。
与えられた糸を井戸で清めると、不思議なことに5色に染めあがったとか。さらにうら若き女人まで現れ、その導きによって織り始めるや、一晩にして前述の大きな織物が仕上がったという次第である。
いうまでもなく、老婆も若き女性も、阿弥陀さまと観音さまの化身。彼女が仏の導きによって奇跡を起こしたとのお話を、このような形で言い表したのである。
自らが織りあげたというその織物を通じて、人々に仏の教えを伝えたという法如こと中将姫も、その12年後の宝亀6(775)年、29歳にして、夢にまで見た極楽浄土へと旅立ったようである。同寺院で毎年催される練供養会式(ねりくようえしき)は、彼女が極楽浄土へと旅立っていったことを模したものとか。
ちなみに、中将姫の墓は、當麻寺の北に位置する共同墓地内の他、奈良市市街地の徳融寺(鳴川町)内にもある。後者は彼女が生まれ育った地だとも言われるが、同市三棟町の誕生寺にも中将姫が産湯を使った井戸があるなど、諸説飛び交うのも気になるところである。
血塗られた蘇我氏との繋がりも
最後に、もう一つ気になるお話を。彼女を苦しめた継母・照夜の前たちのその後の動向である。
彼女は橘諸兄の娘ともいわれ、夫・豊成との間に豊寿丸を生んだと言われる。中将姫にとっての異母弟であった。この異母姉弟が、道ならぬ恋に陥ったとの説がある他、継母が毒入りの甘酒を娘に飲ませようとしたところ、実の息子が飲んで死んでしまったなどとの設定で語られることもある。さらには、継母自身が罪の意識に苛まれて自害したとの話までも伝えられているのだ。
また、それ以上に興味深いのが、中将姫の出身母体である当麻氏の動向である。
先祖を辿れば、用明(ようめい)天皇の第3皇子の当麻皇子(たいまのみこ/大江山の三鬼退治にも登場。兄は厩戸皇子/うまやどのみこ)にたどり着くわけで、ひいては蘇我氏とも関わり合いのある氏族でもある。つまり、彼女は血塗られた氏族とも言われる蘇我氏の地を引いていることになる訳で、贖罪(しょくざい)の意を込めて、西方浄土を目指したとみなす向きまであるのだ。
どうやらこの説話、単に親子兄弟間の確執として捉えるだけでなく、時代を超えた巨視的な見方で捉え直す必要がありそうだ。