承久の乱で敗れた官軍の将・佐々木広綱の子・勢多伽丸の悲劇
鬼滅の戦史108
朝廷と幕府の全面対決となった承久の乱。最終的に幕府方の勝利となり、官軍に与した将たちは、次々と首をはねられていった。佐々木広綱(ささきひろつな)もその一人で、その子・勢多伽丸(せたかまる)も連座して殺されている。ただし、そこには意外な思惑が潜んでいた。
京側に寝返った父・佐々木広綱に連座

承久の乱を指揮し、生殺与奪を仕切っていた北条泰時。『和田合戦義秀総門押破』(部分)/都立中央図書館蔵
勢多伽丸という名の少年をご存知だろうか? 威勢の良い字を連ねたにもかかわらず、心なしか儚(はかな)さが漂うその名に、少なからず興味が湧いてしまうのである。
この少年、実は、朝廷と幕府が激突した宇治川の戦い(承久の乱)において、官軍方の将として兵を率いた佐々木広綱の四男である。弟の信綱(のぶつな)が、敵対する幕府方の将とあって、兄弟が敵味方に分かれて戦わざるを得なかったという、不運な人生を歩んだ御仁であった。
ともに幕府に仕えていた東国御家人であったが、都での暮らしが長かった兄が、次第に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)側に傾倒。承久の乱が始まるや、官軍に属して弟と敵対してしまったのだ。
兄・広綱が弟・信綱に、朝廷側に与するよう使者を通して誘いかけたこともあったが、この弟は、兄が寄越(よこ)した使者に返答することもなく追い返した挙句、その経緯を北条義時(ほうじょうよしとき)に伝えている。あくまでも義時に付き従う意志を、あらためて表明したのである。この時の弟の心境は、おそらく兄を完全に見限ったものであったに違いない。
その後、宇治川において激闘が繰り広げられたのは、ご存知の通り。濁流をものともせず、果敢に攻める幕府方の勇士たち、その奮闘ぶりは、『吾妻鏡』に詳しい。それによれば、まず信綱が先陣を切って川に突入。続いて、芝田兼義(しばたかねよし)があとを追う展開となるが、どちらが先に敵陣にたどり着いたかについては、定かにし難いほどの僅差であったとか。

「橋合戦」とも呼ばれる合戦の場が行われた宇治橋。撮影:藤井勝彦
この両名の突入を合図に、次々と御家人たちが渡河を開始。ついに幕府方が宇治川を突破して、京の都へと駆け抜けていったのである。その功を誇らしげに語る弟・信綱だっただけに、彼から見れば、裏切り者というべき兄を許す気にもならなかったのだろう。
ともあれ、彼らの先陣争いが功を奏して、結局、幕府側が勝利をものにしたのである。
負けて裁きを待ち受ける兄は、幕府の恩恵を受けながらも、京側に寝返ったわけだから、東国御家人たちの恨みも強く、厳しい処罰が下されることは避けられそうになかった。当然のごとく、広綱は、10日余り後の7月2日に梟首(きょうしゅ)されている。
そしてその嫡男・継綱(つぐつな)は、すでに戦死。次男・為綱(ためつな)及び三男・親綱(ちかつな)は行方不明であった。わずか11歳(14歳とも)に過ぎなかった四男・勢多伽丸だけが唯一残ったものの、当時のしきたりとしては、処刑される運命にあった。
出家して仁和寺(にんなじ)で後鳥羽上皇の第2皇子・道助入道親王(どうじょにゅうどうしんのう)に育てられていたこともあって、勢多伽丸の母はもとより、道助までもが必死に助命嘆願を繰り返した。
さすがにそれを見かねた義時が、「10余歳の孤児では、悪行もできまい」と、罪を許すかのような気配を見せたことが、せめてもの救いであった。わずかながらも光明が見えはじめたことで、母子共々、一時とはいえ、胸をなでおろしたものであった。
勢多伽丸の叔父・信綱が助命に反対
ところが、ここで登場するのが、父・広綱の弟・信綱である。勢多伽丸にとっては叔父にあたる御仁であるが、この信綱が、あろうことか、勢多伽丸の助命に反対したのだ。
勢多伽丸を助命するなら、この場で自害するとまで息巻いたというから、義時も困り果てたに違いない、信綱といえば、泰時にとっては妻の兄。しかも、数々の功績を為した名将であった。泰時としても、無下にできるものではなかった。
結局、その申し出に従って、勢多伽丸の処刑に同意せざるを得なくなってしまったのである。もちろん、我が子を喪った母の悲しみがいかばかりであったか、想像に難くない。
京都市右京区にかつてあった善妙寺(現在は為因寺/いいんじ)は、承久の乱に敗れて殺された中御門宗行の菩提を弔うために創建された尼寺であるが、勢多伽丸の母(明達尼とか)も、勢多伽丸の死後出家して、そこで夫と子らを弔うために念仏に専念したとも伝えられている。しかし、それもつかの間、とうとう世を儚んでか、清滝川に身を投げて命を絶ったとか。
信綱が佐々木家の乗っ取りを画策?
それにしても気になるのが、なぜ信綱が、甥の勢多伽丸の助命に反対したのか? 一説によれば、もともと広綱と信綱の兄弟の仲が悪かったことに起因するという。
さらには、信綱が甥を死に追いやることで、佐々木家の棟梁の地位を奪い取ろうとしたと言われることもある。
確かに、乱の終焉後、信綱は、佐々木家棟梁の座を射止めたばかりか、宇治川の戦いでの功績が認められ、佐々木家の本貫地である近江豊浦庄や羽爾堅田庄、高島朽本庄、栗太郎北部などにおける地頭職をも手に入れている。1232年には、近江守の地位にまで任じられるという躍進ぶりであった。
もし広綱や勢多伽丸が生きていれば、おそらくその地位は、広綱を通して勢多伽丸が受け継いでいたとも考えられるから、信綱がそんな思惑を抱いていたというのも、まんざらあり得ない話ではないのだ。
ともあれ、それが事実だとすれば、あまりにも非情というべきか。犠牲となった勢多伽丸こそ、浮かばれそうもない。その名から感じられる印象通り、何とも儚くも物悲しい結末となってしまったのである。