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承久の乱後、北条氏が行った論功行賞の中身とは?

鬼滅の戦史107


承久(じょうきゅう)の乱・宇治川の戦いで勝利した泰時(やすとき)と時房(ときふさ)は、入京し六波羅(ろくはら)に移り、早々と国を治めるための計略を練っている。合議の内容は「残党が多いとはいえ、疑わしい者の刑は軽くする」というもので、世の人々が賞賛したかのように『吾妻鏡』に記されている。しかし、現実にはその後の幕府方による残党狩りは、目を覆うほどのものであったようだ。その実情を探ってみたい。


 

 承久の乱で敗北した官軍と佐々木経高の扱い

承久の乱における、宇治川の合戦場面。奈良法師の土護覚心や円音の2人が橋桁の上で鎌倉方の武士を大長刀で立ち塞ぐ。『少年源氏三代北条九代記』/国立国会図書館蔵

 承久の乱の終盤では、宇治川において激闘が繰り広げられた。614日に濁流をものともせず、果敢に攻めた幕府方の勇士たち。その奮闘ぶりは、『吾妻鏡』が特に詳しい。

 

 それによれば、まず佐々木信綱(ささきのぶつな)が先陣を切って川に突入。続いて、芝田兼義(しばたかねよし)があとを追う展開となるが、どちらが先に敵陣にたどり着いたかについては、定かにし難いほどの僅差であったという。

 

 この両名の突入を合図に、次々と御家人たちが渡河を開始。ついに幕府方が宇治川を突破して、京の都へと駆け抜けていったのである。

 

  615日未明に入京を果たしたものの、鎌倉方の北条時房・泰時らが六波羅の館に移ったのは、翌16日の朝を迎えてからのことであった。

 

 六波羅とは、平家滅亡の後、源頼朝に与えられた幕府方の拠点である。北条時政が京都守護に任命されると、その庁舎としての役割を担うことになるが、実質的には、北条氏をはじめとする東国の御家人たちの宿舎として利用されたのであった。

 

 乱の終焉後には六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれたが、これは都周辺の治安維持とともに、朝廷を監視するという役割を担っていた。その政務にあたる探題とは、執権、連署に次ぐ重職で、南北に一名ずつ派遣。北条氏一族の中でも、将来有望な人材が選ばれるのが慣例であった。

 

 16日のこの日の動向として注目すべきなのは、頼朝(よりとも)の挙兵時から仕えてきた佐々木経高(ささきつねたか)にまつわる逸話だろう。経高は頼朝からの信任も厚く、淡路、阿波、土佐の三国の守護職に任じられていたが、承久の乱が起きて解任されるや一転、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に申し開きをした上で、官軍側に就いた。合戦の計を廻(めぐ)らせるも、最終的に宇治川の戦いで敗走してしまう。

 

 6月16日に鷲尾にいたところで、居どころを掴んだ泰時が使者を派遣してきた。伝言は「恩赦するから、命を捨ててはならない」というものであった。

 

 ところが、経高はこれを「自殺を勧める使者に違いない」とみなして自害。ただし、すぐには死ねなかった。まだ命のあるうちに助けられ、六波羅に連れてこられた。泰時と面会したその直後、経高は声を発することもできないまま、息を引き取った。

 

 なお、経高が率いていた阿波の兵600余名は、宇治川や瀬田川の戦いに敗れ、その多くが郷土に帰ることができなかった。乱後、阿波国には小笠原長清(おがさわらながきよ)が守護職として送り込まれたが、阿波に着くや、佐々木氏の居城を攻め立て、経高の次男・高兼を自害に追いやっている。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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