足利尊氏に裏切られた後醍醐天皇の「怨霊」伝説
鬼滅の戦史104
反幕勢力を結集して鎌倉幕府を討ち倒した後醍醐(ごだいご)天皇。しかし、その功第一と称えられた足利高氏(尊氏/たかうじ)に裏切られ、再び武士の世に逆戻り。親政ならず、後に怨霊になって恐れられたという後醍醐天皇の逸話をひも解く。
倒幕を目指すも戦いに敗れて逃走

後醍醐天皇影/中山鍮次(養福)摸/東京国立博物館蔵 ColBase
後醍醐天皇といえば、鎌倉幕府討伐を計画し、苦難の末、ついにそれを実現した人物として知られる。
武士から実権を取り戻して親政を行うという天皇の願いは、1333年に鎌倉幕府を滅ぼしたことで、実現したかに見えた。しかし、そこに立ちはだかったのが足利高氏。かつて天皇から信任されて、幕府討伐に貢献した武人であった。それが天皇を裏切り、再び武士の世を打ち立ててしまったのだから、天皇は恨み骨髄の心境だったに違いない。
もともと後醍醐天皇は、護持僧(ごじそう)を務める文観なる僧から、両部伝法灌頂(でんぼうかんじょう)職位を授かって阿闍梨(あじゃり)となった天皇である。清浄光寺蔵『絹本著色後醍醐天皇御像』を見てもわかるように、袈裟(けさ)姿でありながらも中国皇帝の冠を被り、さらには密教の法具を手にするという異形の様相。中国渡来の真言密教に心底肩入れしていた様子がうかがえる。
その御仁が、鎌倉幕府調伏の祈祷を文観にさせていたばかりか、自らも一心不乱に呪文を唱えて幕府討伐を祈願したといわれる。しかし、これが幕府に知られては一大事。表向きは、もちろん違う。中宮・西園寺禧子(さいおんじきし)の安産祈祷にかこつけて、その実、倒幕への思いを込めたのだ。
一説によると、秘儀として、人間の心臓が大好物という茶吉尼天(だきにてん)を祀るために、髑髏(どくろ)を祭壇に供えた上で、何と性の秘儀まで行ったと言われることもある。
その効果があったのかどうかは別として、後醍醐天皇が抱いていた危惧は、現実のものになってしまった。
天皇側の討伐計画が、側近・吉田定房(よしださだふさ)の密告(一説によると、後醍醐天皇の身を案じてのことだったとも)によって暴露されてしまったからである。ならば、「急ぎ挙兵すべし」として、準備が整わないまま踏み切らざるを得なかった。笠置山に籠って籠城戦に持ち込もうとするも、圧倒的な兵力を有する幕府軍の攻撃になすすべもなく敗退(元弘の乱)。
天皇も、山中に逃げ込んだところを捕得られてしまった。その時の姿が、「髪を振り乱し、服装も乱れたまま」であったところからか、父・花園院が「王家の恥」とまで言い放ったという逸話も、よく知られるところである。しかも、幕府の取調べに対して、天皇自らが「天魔の所為」、つまり悪魔のせいにして罪を逃れようとした。これも、後世の人々から非難される一因になったようである。
流刑地から脱出して倒幕に成功
それでも、こんなことでめげる天皇ではなかった。謀反人として隠岐島(おきのしま)に流されたものの、地元の豪族・名和(なわ)一族の協力を得て、密かに小舟を用意して島を脱出。伯耆国(ほうきのくに)の名和湊(御来屋港)にたどり着いた後、船上山(鳥取県琴浦町)に行宮を築いて再び挙兵に踏み切ったのである。
後醍醐天皇方150余。これに対して、幕府軍は3000。圧倒的な寡兵にもかかわらず、大軍がいるとの見せかけの作戦が功を奏してか、後醍醐天皇側が勝利。さらに足利高氏や新田義貞(にったよしさだ)ら反幕勢力に呼びかけて、京の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略したばかりか、鎌倉に攻め入って、幕府側の武将たちをも討ち取って、ついに幕府を滅亡させることに成功したのである。元弘3(1333)年のことであった。
親政を目指すも三種の神器を足利側に渡すことに
もちろん、これで長年の願いが実現できると、大いに喜んだにちがいない。その後、建武の新政と呼ばれる専制政治を開始。足利高氏を戦功第一として、自身の偏諱(尊治)から一字をとり、高氏を尊氏として、その功績を讃えたものであった。
しかし天皇の苦難は、まだ終わったわけではなかった。何と戦功第一と称えたはずの足利尊氏が、反旗を翻してしまったからである。
新田義貞に尊氏討伐を命じて、一時的に尊氏を押さえ込んだかに見えたものの、体制を立て直した尊氏が反撃を開始。追い詰められた天皇は、比叡山(ひえいざん)に逃れて抵抗するも、足利側の和睦の提案を受け入れざるを得なくなってしまったのである。最終的に三種の神器を足利側に渡し、尊氏は光明(こうみょう)天皇を奉じて京都朝廷(北朝)を開設したのだ。
それでも諦めることのできなかった天皇、何と今度は幽閉先である花山院から逃走。京都朝廷(北朝)に対抗するかのように、吉野において新たな朝廷(南朝)を開いた。2つの朝廷が並列する南北朝時代の始まりである。その後、息子たちを将軍に任じて各地に派遣。北朝に対抗させようとしたものの、ついに命が尽きた。七男の義良(のりよし)親王(後村上天皇)に譲位した翌日、宝算52で亡くなってしてしまったのである。

「後醍醐帝笠置山皇居霊夢之図」尾形月耕筆/都立中央図書館蔵
切望していた親政はおろか、「治天の君」(上皇として政権を握ること)の地位にもたどり着けぬまま、死の床につかざるを得なかった後醍醐天皇。募る恨みに、歯ぎしりしながら旅立ったに違いない。
そして当時は、恨みを抱いたまま死んでいった者は、怨霊となって人々に災いを為すと信じられた時代である。もちろん、後醍醐天皇の怨霊も恐れられた。『太平記』によれば、崇徳(すとく)院や後鳥羽院に混じり、後醍醐天皇までもが怨霊となって、密議を凝らして国家転覆を目論んだとする場面が登場する。
そればかりか、後醍醐天皇の怨霊が、楠木正成(くすんきまさしげ)の霊に命じて鬼女に化けさせ、大森盛長(おおもりもりなが)が所持する妖刀(ようとう)を奪い取りに来させたこともあったとか。足利直義(あしかがただよし)が病に倒れたのも、この怨霊のせいだったといわれる。もちろん、どこまでが史実なのか定かでないことはいうまでもない。