北条泰時が推進した「徳政」と「御成敗式目」
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑬
幕府の徳政でより強固になった北条政権

3代執権・北條泰時が制定した御成敗式目。制定は貞永元年(1232)。後年、有職故実(ゆうそくこじつ)の対象や手習いの手本にもなり、多くの写本が作られた。写真は江戸時代の写本。国立公文書館蔵
天変地異は為政者に対する譴責(けんせき)または警告――。古代中国で生まれたこうした災異(さいい)説は日本でも受け入れられ、平安時代中頃までの朝廷では、深刻な飢饉に見舞われると大臣クラスを更迭(こうてつ)したが、次第に人事には手を付けず、除災(じょさい)の祈禱(きとう)を行わせるだけで済ますようになった。
鎌倉幕府は、この点では朝廷に倣(なら)わず、天変地異を真摯に受け止め、陰陽道と密教の祈禱だけでなく、民を慰撫(いぶ)する徳政にも力を注いだ。
安貞元年(1227)に始まる異常気象が激しさを増し、季節外れの降雪が報告された寛喜2年(1230)6月、北条泰時は徳政の実施を決定した。
室町時代の徳政が債務の帳消しを主としたのに対し、泰時による徳政は、自ら率先しての倹約、行事の簡略化、利息の制限、挙米の奨励、炊き出しの実施、流民の留め置き、同居人を養えなくなった場合に限っての人身売買の容認など、その内容は非常に多岐にわたった。
同時期の朝廷による徳政が、米価の高騰を防ぐための価格統制だけだったのとは好対照である。
朝廷の政治は先例に倣うことを第一としたが、それは歳月の経過に伴い、形骸化と有名無実化に陥る危険と離れがたく、北条泰時(やすとき)はおそらく六波羅時代にその弊害を悟り、実効のある救済策を選んだのだろう。リアリストとするのは言い過ぎだが、北条泰時は血の通った政治を心掛けたと言っても過言ではない。貞永元年(1232)8月に制定した『御成敗式目』からも、その姿勢がありありと見て取れる。
同式目は網羅的な法典ではなく、当面の課題を解決するにあたって留意すべき原則を列記したもの。目新しい法があるわけではなく、すでに存在する法の応用や例外に関する対応姿勢などについて、幕府としての見解が示されている。
式目の制定が源頼朝(よりとも)でも北条義時(よしとき)でもなく、北条泰時の手で行われたのは、戦時から平時への体制変換が求められたからだろう。
式目のなかでも目立つのは、土地をめぐる争いや私闘の禁止に関する規定の多さで、このことは公地公民の建前が完全に崩れ去ったこと、私闘を公平に裁ける絶対的な第三者を求めがたいがために、私闘の予防自体に重点が置かれたことを物語っている。
律令(りつりょう/東アジアで見られる法体系)を知る朝廷の目には、『御成敗式目』は法と呼ぶに値しないと映ったかもしれないが、貴族と鎌倉武士の日常はまったく異なる。自分たちに合った決まりを確認し合うのは非常に合理的で、まったく恥じる必要はなかった。
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