泰時・時房が死闘を繰り広げた「承久の乱」瀬田・宇治川の戦い
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑭
苦戦を強いられた瀬田川を挟んだ攻防

朝廷軍で勇敢に戦ったと伝わる鏡久綱は、佐々木定綱の孫。大井戸渡に布陣した大内惟信に属し、武田信光・小笠原長清率いる幕府方東山道軍と戦うも敗れる。この後、久綱は藤原秀康の軍に属し、近江で北条泰時ら幕府方の東海道軍を迎撃するも、宇治への退却を決断。味方が撤退するなか、久綱は幕府方の大江佐房と戦うも敗れ自刃した。国立国会図書館蔵
北条時房・泰時らが、大軍を率いて東海道の宿駅・野路(のじ/草津市野路町付近)へとたどり着いたのは、承久3(1221)年6月12日のことであった。
この日、泰時を慕う幸島行時(さしまゆきとき)が駆けつけてきたが、それは泰時にとって、喜ばしいことであった。泰時のためなら死をも厭(いと)わないとして、その陣に加わっている。決戦を前にした酒宴最中の出会いということもあって、行時を上座に招いて盃を与えるほどのもてなしようであったとか。この泰時の思いやりに、陣中皆大いに感銘を受け、一層、勇気を奮い起こしたとも。泰時の優れた人格を示す逸話である。
その泰時が進軍を開始したのは、翌13日のことであった。雨が降りしきる中、野路から時房が瀬田へ、泰時が宇治へと別れて進軍。その内、最初に戦いの火蓋を切ったのが、瀬田にたどり着いた時房軍であった。
琵琶湖から流れ出る瀬田川、そこに架かる大橋を渡れば、京の都もすぐ。ここを突破できれば、もはや入京は叶ったも同然という要衝である。それゆえに、官軍方にとって見れば、死守すべき最後の砦というべきところであった。
この瀬田に官軍方から派遣されてきたのは、山田重忠(やまだしげただ)や伊藤左衛門尉(いとうさえもんのじょう)及び山僧ら3000余騎である。鎌倉方の時房らが瀬田に着いた時には、すでに彼らの手によって、大橋の中ほどの板2間(約3・6m)ほどが引き剥がされていた。そこに盾を並べ鏃(やじり)を揃えて待ち構え、いつでも矢を放たんと、態勢を整えていたのだ。
降り続く雨で、川はすでに濁流と化していた。そのため、渡河するにはこの橋を渡るしか術がなかった。危険を冒して強引に橋を渡ろうとした者も多かったが、官軍方に雨あられと矢を放たれ、多くが射られて進むことも叶わなかった。橋桁(はしげた)をよじ登ろうとした者もいたが、橋桁の上にも、大太刀や長刀を手にする悪僧たちが待ち構え、すぐに斬り伏せられてしまうばかりであった。
それでも橋を渡ろうと、強者どもが果敢に挑み続けたことで被害が拡大。熊谷直国(くまがいなおくに)などは、矢が浴びせかけられる中、這って橋を渡ったものの、山田重忠の郎党・荒左近(あらさこん)に討ち取られている。後に熊谷家はこの時の直国の働きが認められ、安芸に荘園を受けている。吉見十郎(よしみじゅうろう)も、息子・小次郎とともに川に飛び込んだものの、鎧を脱ぎ捨てて逃げ戻らざるを得ないほどの激流に苦戦していた。
対岸で指揮をとっていた山田重忠の近くに遠矢を放つ
この様子を見ていた鎌倉方の御家人・宇都宮頼業(うつのみやよりなり)が、一計を案じた。橋から1町余(約110m)川上に陣を張ってそこから遠矢を放つことにしたのである。頼業が13束2伏の大矢を放つや、3町余(約330m)も離れた対岸で指揮をとっていた山田重忠の近くに突き刺さる。その剛弓に驚いた重忠が退却。さらに三穂崎から船で駆けつけてきた美濃堅者観厳にも矢を射かけて法師2人を倒すや、こちらも観厳が驚いて退却するなど鎌倉方の奮闘ぶりが際立った。
そんな激闘が繰り広げられたものの、時房側の矢種が尽きたことで、一旦攻撃を中断。容易に官軍を打ち破ることができなかったのだ。難航していた瀬田橋での攻防を制し、無事突破を果たしたのは、翌14日のことであった。
これによって、官軍方の大江親広(おおえちかひろ)や藤原秀康(ふじわらひでやす)、佐々木盛綱(もりつな)、三浦胤義(たねよし)らが敗走。幕府軍が追う展開となっていったのである。
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