鎌倉御家人・熊谷直実は 一ノ谷の戦いで本当に平敦盛の首を刎ねたのか?
鬼滅の戦史105
一ノ谷(いちのたに)の戦いに敗れて敗走しようとする平敦盛(たいらのあつもり)。それを引き止めて組み敷いた熊谷直実(くまがいなおざね)が、涙ながらに首を刎ねたというのが、誰もが知る敦盛最後の場面である。しかし、実は首を刎ねられたのは、直実の子であったとの説もある。そればかりか、亡霊となって直実の前に現れたともいわれるが、真相はどのようなものだったのだろうか?
熊谷直実に呼び戻されて首を刎ねられた平敦盛の悲運

「一ノ谷合戦」『源平盛衰記』歌川芳虎筆/東京国立博物館
「まさなうも敵にを見せさせたまふものかな。返させたまへ」
源義経(みなもとのよしつね)の鵯越(ひよどりごえ)の逆落としで知られる一ノ谷の戦い。崖上からの攻撃に驚いた平氏軍が浮き足立って次々と逃げ惑うその中に、一人の美少年がいた。その名は、平敦盛。清盛の弟・経盛の子である。騎馬のまま沖合に浮かぶ船に逃げ込もうとしたその刹那、源氏方の武将・熊谷直実に、冒頭のように声を懸けられたのである。「敵に背を見せて逃げるとは卑怯、引き返せ」というのだ。
これに応えて、敦盛が踵(きびす)を返してしまったのが運の尽きであった。
武名を重んじる当時の武士にとって、卑怯と言われることほど耐え難いものはなかった。命を懸けてでも阻止すべきことだったのだろう。ただ、出会った相手が悪かった。直実といえば、今まさに逆落としで一番乗りを果たした御仁。源氏方きっての猛者である。すぐに馬から引き摺り下ろされ、馬乗りになって組み敷かれてしまった。もはやこれまでと、諦めるしかなかったのだ。
ここで直実が男に名を問うも答えない。ただ、「汝がためにはよい敵ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ」というばかりであった。では、とばかりに、首を刎(は)ねようと兜(かぶと)をあげて顔を見やれば、何と我が子・直家と同じ年頃の少年である。哀れと思って、一度は逃がそうと思ったものの、後ろから味方の一群が近付いてくる。ここで自分が逃しても、味方の誰かが討ち取ることは目に見えていた。ならば、自分が討ち取るしかあるまいと、涙ながらに首を斬ったのである。
その時、ふと目にしたのが、少年の腰に刺していた笛。その日の明け方に敵陣から笛の音が聞こえてきていたのを思い起こし、それがこの少年によるものとわかって、一層心が揺さぶられたのであった。
武士でなかったらこんな辛い目に合わなくても良かったのにと、無常を感じた直実。その後出家して、蓮生(れんせい)法師を名乗ったという…と、ここまでが、直実が敦盛の首を刎ねる名場面として、よく知られるところのお話である。

「平敦盛と熊谷直実」勝川春章筆/東京国立博物館 ColBase
身代わりとして我が子の首を刎ねた?
ところが、浄瑠璃や歌舞伎の演目『一谷嫩軍記』では、これとは大きく異なる物語が演じられている。何と、敦盛は「一ノ谷で死んでいなかった」というのだ。実は敦盛が後白河院の御落胤(ごらくいん)で、その事実を直実が義経から知らされていたとか。義経は敦盛の命を助けるために、直実に対し、子・小次郎を身代わりにせよと命じたというのだ。直実が我が子の首を刎ねて、敦盛を逃がしたというのだから驚くばかりである。
ちなみに、物語の中では、敦盛の妻・玉織姫(たまおりひめ)は、須磨の浦を彷徨(さまよ)う最中に殺害されたことになっているが、逃れた夫を探してさまよい歩いた末、広島県庄原(しょうばら)市で亡くなったと言い伝えられることもある。同市春日にある玉織姫の墓がその証というから、敦盛が一ノ谷から逃げ延びたというのも、まんざら物語の中だけのことではないのかもしれない。
亡霊となった敦盛が直実との再会を喜ぶ
さらにもう一つ気になることがある。それが、敦盛が亡霊となって直実の前に現れたというエピソードである。これは、能『敦盛』における設定で、そこでは敦盛の亡霊が直実の前に現れて、恨むどころか再会を喜び、回向(えこう)まで願い出たとしているのだ。
時は、平家がすでに滅んだ後のこと。蓮生法師となった直実が、一ノ谷に赴いたときのことである。そこにいた樵(きこり)の一団の中に、敦盛ゆかりの人物がいた。その者から敦盛の供養を頼まれた蓮生が念仏を唱えるや、鎧姿の敦盛が現れたというのである。
そして蓮生に対して、合戦前後の様相について話し始めたという。直実を恨むこともなく、かえって法の友となった二人の出会いを喜んだとも。最後に、蓮生に回向を願い出て、静かに消えていった…というのだ。敦盛の清き心が引き立つ設定で、悲哀漂うとはいえ、その風雅な世界観に、思わず引き込まれてしまうのである。