聖武天皇は、なぜ長屋王の祟りを恐れたのか?
鬼滅の戦史110
2人の娘を天皇に嫁がせたことで、絶大な権勢を誇るようになった藤原不比等(ふじわらのふひと)。その4人の息子たちが権勢維持を目論んで謀ったのが、「長屋王の変」であった。それが、聖武(しょうむ)天皇の後継者選びにも関わっていたという。いったい、どのような背景によるのだろうか?
2人の娘を皇室に入れた不比等の躍進

聖武天皇が遷都を図った恭仁京跡(京都府木津川市加茂地区)。実際にどのような都であったかは、現在の研究でも判明していない。
「何食わぬ顔で長屋王(ながやおう)」
少々言い古した感もあるが、こんな語呂合わせで年代を覚えた人も多かったのではないだろうか?「何食わぬ」とは、729年のこと。いうまでもなく、「長屋王の変」が起きた年である。
ちなみに長屋王とは、父が天武天皇の長男・高市皇子(たけちのみこ)、母が天智天皇の皇女・御名部皇女(みなべのひめみこ)というから、皇位継承順位が非常に高い人物であったことは間違いない。その御仁が、嵌(は)められたのである。
「長屋王の変」と言うからには、いかにも長屋王が反乱を企てた張本人かのような印象を受けるが、実態はその逆。皇親勢力の中核ともいうべき長屋王を、藤原四兄弟(藤原不比等の子)が、それこそ「何食わぬ顔」で排斥するために仕組んだ事件であった。
その昔、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に重用されて躍進。藤原姓を賜って以降、この氏族が権力の中枢に躍り出たことはご存知の通りだ。その権勢も、一時衰退したかのように思えたこともあったが、不比等の後半生の活躍ぶりで復活。以降、目を見張るような繁栄ぶりであった。
その不比等が、権勢確立の策として用いたのが、自らの娘・宮子(養女だったとの説も)を軽皇子(かるのみこ/後の文武天皇)に嫁がせて、外戚としての地位を獲得することであった。
阿閇皇女(あへのひめみこ/後の元明天皇)付きの女官・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ/不比等の妻となる)の働きかけも功を奏して、無事、嬪(ひん)の地位を得て首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)を産ませることができたのだ。
さらに、三千代との間に産まれた安宿媛(あすかべひめ/光明子、後の光明皇后)を、今度は孫の首皇子に嫁がせて、阿倍内親王(あべのないしんのう/後の孝謙、称徳天皇)まで産ませた。皇室内に2人の娘を嫁がせた不比等の勢威が、この上ないものになったことは言うまでもない。
藤原四兄弟に謀られて自死
ところが、この首皇子が皇位を継いで聖武天皇として即位したものの、その生母である宮子に「大夫人」の称号を与えようと計ったところで躓いた。
当時左大臣の地位にあった長屋王が、皇族でない宮子の「夫人」尊称に、真っ向から意を唱えたからである。正論を吐かれては天皇も自らが発した勅を撤回せざるを得なくなった(辛巳事件)のだ。
その後も、長屋王の横槍が続く。聖武天皇に嫁いだ光明子(こうみょうし)の立后(りっこう)にまで反対したのである。ここにきて、ついに藤原四兄弟の怒りが爆発。
「いっその事、長屋王を亡き者にしてしまおう」
そんな謀が、4兄弟の中で語りあわれたのだろう。手っ取り早い方策が、讒言(ざんげん)である。つまり、人を陥れようと、ありもしない偽話を作り上げて訴え出させたのだ。長屋王が「左道を学んで国家を傾けようとしている」と。
ちなみに「左道」とは、邪道とも表されるが、具体的にどのようなことなのかは判り難い。「国を傾ける」というのも然り。つまり、罪もない者を陥れるのに、これほど都合の良い言い回しは他にないのだ。
ともあれ、この密告(下級官吏による)を受けて、その日のうちに六衛府の軍が発動。長屋王の邸宅を囲んで王を糾弾し、ついには長屋王ばかりか、妻の吉備内親王(きびないしんのう)や4人の子(膳夫王/かしわでおう、桑田王/くわたおう、葛木王/かつらぎおう、鉤取王/かぎとりおう)まで自害に追い込んだのである。長屋王は結局、藤原氏の餌食となったも同然であった。
ただし、その死に関わっていたのは、何も藤原氏だけではなかった。実は、聖武天皇までもが関わっていたと指摘されることもあるのだ。
長屋王の子らは、皇位継承順位が最も高く、彼らが生存する限り、聖武天皇と光明子が産んだ子供たちに皇位が回ってくる可能性が低かったことに起因する。聖武天皇系統の子らを即位させるためには、長屋王の子らが生きていてくれては困るのである。
天皇自身が策を弄したかどうかは定かではない。それでも、天皇の警護に当たる六衛府を動かしているところからすれば、天皇自身の命であった可能性も否定し難いのだ。
長屋王を陥れた報いとは?
当然のことながら、その報いを受けるべき時がやってきた。長屋王が無念の死を遂げてから8年後の737年のこと。まず、長屋王追い落としの張本人とも言うべき藤原4兄弟が、わずか4ヶ月の間に、次々と流行病(天然痘であったとも)にかかって亡くなっていった。そればかりか、重臣達の多くも亡くなった。加えて、火災や大地震にも見舞われた。
乱の11年後には藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱も勃発。世も荒みに荒んだ。と、ここに至って、聖武天皇の恐れはピークに達したようである。関東への突如の行幸を始め、恭仁京(くにきょう)への遷都やその撤回(その後、近江の紫香楽宮/しがらきのみや/や難波宮/なにわのみや/を経て平城京に戻った)など、謎の行動が繰り返されたからである。不安な心の持ちよう、その表れと見る他ない。
怨霊とは、罪の意識に苛まれた人だけが見えるものと仮定すれば、天皇が長屋王の祟りを恐れたこと、それ自体、自身が自らの意思をもって手を下した証拠とも言えるのである。