阿倍仲麻呂の「幽閉」説とその後
鬼滅の戦史115
遣唐留学生として唐に渡り、異国の地で生涯を終えた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)。その活躍ぶりは目覚しいが、実はその出世を妬(ねた)んだ唐の楊国忠(ようこくちゅう)や安禄山(あんろくざん)に、殺害されたとも言い伝えられる。その真相や如何に?
吉備真備とともに遣唐留学生として渡唐

仲麻呂が死没した際には、その業績を讃えて正二位が贈られた。『前賢故実』国立国会図書館蔵
阿倍仲麻呂といえば、遣唐留学生として渡唐後、唐の高官となったまま異国の地で生涯を閉じたとされる御仁である。帰国の念絶ち難く玄宗(げんそう)皇帝に帰国を願い出るも、才を惜しまれてついに許されることはなかった。
結局、54年もの長きにわたって異国の地で過ごしたまま、ついに故郷の土を踏むことがなかったのである。まずはその悲運の人の生涯から、振り返って見ることにしたい。
生年は、文武天皇2(698)年、持統(じとう)天皇から譲位された文武(もんむ)天皇が即位した翌年のことである。祖父は、蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ/しゅくしん)を討伐したとされる阿倍比羅夫(あべのひらふ)。名門出身に加え、若き頃より学才が讃えられた、誉(ほまれ)高き人物であった。
養老元年(717)、19歳にして第9代遣唐使船の遣唐留学生に選ばれて渡海。吉備真備(きびのまきび)が、一行の中に加わっていたというのも奇縁である。真備は17年後の天平6年(734)に無事帰国して高位高官に就いているが、仲麻呂は唐に留まったままであった。
ただし、天平勝宝6(754)年には、第12次遣唐使船に同乗して帰国しようとしたこともあったが、仲麻呂の乗る第1船が座礁。その後暴風雨によって安南(ベトナム)にまで流されたことで、帰国を断念。再び唐の官途に就き、安南節度使まで務めている。
そして宝亀元(770)年、ついに帰国することなく、異国の地において73歳の生涯を閉じたのである。
喜びの歌か悲壮感漂う歌か?
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に出でし月かも」とは、誰もが知る仲麻呂の歌である。これは帰国しようと明州までやってきた仲麻呂が、送別の宴で詠んだものと見られている。望郷の念が込められていることはいうまでもないが、もうすぐ帰国できるとの嬉しさまで滲み出ていると見なすのは考えすぎだろうか?
出航後、仲麻呂を悲運が襲うことになるが、それを踏まえて詠み直すと、今度は悲壮感まで漂ってくる。これは、詠み手の勝手な思い込みというものだろう。
赤鬼になって吉備真備を助ける
ともあれ、帰国の願いが叶えられなかったとはいえ、仲麻呂が唐において存分に働き、かつ、多くの人々に認められたことは事実。それなりに満足のいく生涯を送ったことは間違いない。
ところが奇妙なことに、これとは全く異なる仲麻呂の生き様が伝えられているから面白い。それが記されているのが、12世紀初期に記された『江談抄』や江戸時代に成立した『阿倍仲麻呂入唐記』などである。そこでは、何と仲麻呂が34歳の頃、唐の重臣に妬まれて幽閉されたまま亡くなってしまったというのだ。しかも、その最期が、実に異様であった。
それによると、そもそも仲麻呂が遣唐使に選ばれたのは、唐の玄宗皇帝から天地陰陽(てんちいんよう)の理を記した『金鳥玉兎集』を借り受けることが目的であったとか。それにもかかわらず、仲麻呂が唐に到着後、皇帝に重用されて帰国できず、当初の目的を達成できなかったという。
興味深いのは、この仲麻呂の出世を妬んだのが、かの楊貴妃(ようきひ)の兄・楊国忠と玄宗皇帝の臣下・安禄山だったという点だ。
二人が示し合わせて仲麻呂に酒を飲ませて酔わせた挙句、高楼に幽閉してしまったというからユニークである。これに憤慨した仲麻呂が断食して、ついには憤死してしまったという。さらには、その後仲麻呂が鬼になってしまったとまで記されている。
その頃日本では、仲麻呂が唐に渡ったまま帰国せず、唐の高位高官になってしまったことで、勅命に逆らったとして逆臣扱い。代わって派遣されてきたのが、吉備真備だった…という何とも興味深い展開が続くのである。
唐に渡った真備は、唐人から難題をふっかけられて苦境に立たされることになるが、それを救ったのが、赤鬼となった仲麻呂であったという。ここでは少々出来過ぎとも思えるお話が繰り広げられているのだ。もちろん、とても史実とは思い難いが、唐における仲麻呂の活躍ぶりを彷彿とさせるものだけに、思わず耳を傾けたくなってしまうのである。