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出世街道を突っ走った大納言「伴善男」が転落した理由

鬼滅の戦史117


平安時代に恐ろしいばかりの才能と押しの強さを生かし、大納言にまでのし上がった伴善男(とものよしお)。それでもまだ満足できず、左大臣を陥(おとしい)れようとしたところで、悪事が発覚。ついには、流罪となって身を滅ぼしてしまった。死後、疫病神(やくびょうがみ)となって再び世に現れたと伝わるも、その様相は実に哀れなものであった。


 

頭は切れるが、非道な性格

京都市左京区の平安神宮に復元されている応天門。平安京にあった応天門を縮小したかたちで復元している。伴善男は応天門の変をきっかけとして、没落していく。

 狡猾(こうかつ)ながらも、頭脳明晰(ずのうめいせき)で口が達者。おまけに、押しが強い…。得てしてこんな御仁が、とんとん拍子に出世していくことが多いようである。平安時代初期の宮廷内において、校書殿(きょうしょでん)の小役人を振り出しとしながらも、ついには大納言の地位にまでのし上がった伴善男も、そんな御仁の一人であった。

 

『三代実録』によれば、「天資鬼脉(てんしきみゃく)」というから、恐ろしいほど頭の切れる人物だったようである。加えて「性忍酷」といわれることもあるから、仲間内では鼻つまみ者だったに違いない。

 

 もともと大伴氏という名門氏族の出自であるものの、曽祖父の古麻呂(こまろ)が橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変に連座して拷問の末、刑死。祖父の継人(つぐひと)も、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件の首謀者の一人として捕らえられて斬死。父の国道も連座して佐渡に配流されるなど、代々辛酸を嘗め尽くした一家であった。彼のしたたかさは、そんな家庭環境も大きく作用していたと考えられそうだ。

 

大納言へと出世街道をまっしぐら

 

 ともあれこの御仁、性格云々はともあれ、自らの才能をフルに生かして、とんとん拍子に出世した。校書殿とは、書籍や文書の管理を行う部署だが、そこで働きながらも、出入りする正良(まさら)皇太子(後の仁明/にんみょう/天皇)に目を止められて引き立てられている。

 

 歴史小説家・永井路子氏が著した『悪霊列伝』によれば、その出会いを見越しての任官であったというから、目端(めはし)のよく利く人物だったようだ。皇太子が即位するや、すぐその側近として仕えているから、まさにドンピシャ、彼の目論見(もくろみ)通りとなっている。何とも末恐ろしい御仁である。

 

 さらに、天皇に女御として仕えていた順子(後に仁明天皇の皇后となる)に近付いて、その兄で藤原北家の中心人物ともいうべき良房の知遇をも得ることができた。その上で、善男の一世一代の大勝負ともいうべき、次なる一手を繰り出したのだ。

 

 それは、善男35歳頃のことであった。法隆寺の財物をめぐる訴訟で、判決を下した右大弁・正躬王(まさみおう)をはじめ、伴善男の上司らを猛然と批判したのである(承和13年/846年、善愷訴訟事件)。

 

 これは判決に不服というよりも、訴えを起こす僧は、僧衣を着てはいけないのに着ていたなどといった屁理屈を並べ立て、法手続きに問題があったとして、判決を覆してしまったのだ。

 

 これに伴って、上司らの多くが解任。もちろん、善男の名が宮廷内で知れ渡ったことは言うまでもない。しかも、上司がごそっといなくなったわけだから、彼の出世もうなぎ登り。蔵人頭(くろうどのとう)から右中弁(うちゅうべん)を経て、参議兼右大弁、中宮大夫へ。さらに中納言を経て、とうとう大伴家としても、旅人以来百数十年ぶりとなる大納言に昇進することができたのである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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