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徳川家康の有名な「しかみ像」は脱糞した、情けない姿ではなかった⁉【家康の新説】

徳川家康の「真実」⑨


徳川家康を語る上で有名な逸話として「しかみ像」の話がある。武田信玄に三方ヶ原の戦いで大敗し、恐怖のあまり脱糞。情けないこの姿を今後の「戒め」として絵師に描かせたという話であるが、近年、この話が事実ではなかったのはないかという説がでている。


 

【新説】「しかみ像」は三方原の戦いの戒めとして書かれたわけではなかった

 

■衣装その他から時代を推察

 

岡崎公園に立つ徳川家康の「しかみ像」

 

 尾張徳川家の「しかみ像」は、三方ヶ原合戦で大敗した家康が、敗軍の姿を描かせ、慢心(まんしん)の戒めとしたと伝わる。

 

 ところが、その由来については、尾張初代藩主・義直(よしなお)が描かせたとの説や、家康自身が注文した説など諸説が語られてきた。この肖像画は、紀州徳川家から尾張徳川家に伝えられ、当初は家康の肖像画だったものが18世紀末には長篠合戦時のものと説明されていた。そして、昭和11年(1936)に徳川美術館が、三方ヶ原敗戦時のもので狩野探幽(かのうたんゆう)が描いたものと説明を加え、踏襲された。だが、画像の衣装、武具などから16世紀のものとは到底いえず、当時のものとすることは難しいと考えられる。

 

【新説】清洲同盟締結は永禄6年以降だった?

 

■永禄4年は締結ではなく停戦のための和睦

 

信長・家康が対面したといわれる清洲城
慶長18年(1613年)に廃城となった。写真は平成元年に建てられた模擬天守。

 家康と信長の清洲同盟(きよすどうめい)は、通説では永禄4年(1561)2月に締結されたといわれ、家康は重臣と清洲城を訪問したとされている。

 

 ところが、これを証明する史料は存在しない。家康が信長と何らかの協定を結んだのは確かだが、それはどうも停戦のための和睦(わぼく)に過ぎなかったようだ。

 

 というのも、その後の家康、信長がともに援軍を派遣した形跡がないからだ。和睦が、正式な軍事同盟に昇華するのは、永禄6年3月2日、家康の嫡男信康と、信長長女である五徳が婚約したことが契機となったとみられる。

 

 なお、この時も家康の清洲城訪問は実現しておらず、史実とは言いがたい。

 

監修・文/平山優

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

 

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