横暴すぎる!?織田家臣団による“築城未遂”事件とは?
戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~
戦国時代という激動の時代を生きた神官・吉田兼見(1535~1610)。彼が残した日記『兼見卿記』には、武将たちとのプライベートな交流や知られざる日常が多く記されています。今回はその中から、織田信長と家臣団による“横暴すぎ!?”なある出来事をご紹介します。一体何があったのでしょうか…?
■騒然とする都
天正元年(1573)は、織田信長(おだのぶなが)にとって、大きな転機となった年でありました。それまで、信長は自らが担ぎ上げてきた室町幕府の15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と提携してきた訳ですが、同年前半には決裂。義昭は信長に対して兵を挙げますが、京都の一部を焼き討ちされ、追い詰められた結果、一旦は和議を結ぶことになったのでした。
しかし、同年7月、義昭はまたもや挙兵。宇治の槇島城(まきしまじょう)で戦う姿勢を見せますが、信長自ら軍勢を率いて城を攻囲。猛攻をかけたことにより、義昭はあっという間に降伏。命は助けられましたが、都からは追放されてしまいました。義昭を討つため信長が京に入り、妙覚寺(みょうかくじ)に陣を置いたのは7月7日。槇島に進軍したのは7月16日のことでした。
■騒然とする兼見邸
都が騒然としていた7月14日、まさに信長と義昭との睨み合いの最中だったこの日、公卿で神道家の吉田兼見(よしだかねみ)のもとにも「嵐」がやって来ます。兼見の日記『兼見卿記』(かねみきょうき)によると、柴田勝家(しばたかついえ)・羽柴秀吉(はしばひでよし)・滝川一益(たきがわかずます)・丹羽長秀(にわながひで)ら信長の家臣たちが、突然、兼見の邸にやって来たというのです。
それにしても、勝家・秀吉・一益・長秀とは何というビックネーム!現代の戦国武将ファンなら、彼らがやって来たら「サイン(花押)して!」と思わず言ってしまう気分かもしれませんが、当然、兼見は違いました。「私は出て行って、子細を尋ねた」と兼見は日記に書いていますが(何事か!何だ、何だ!何か変なことを言われるのではないか)と不安な様子が、その記述から想像できます。
「一体、何事でしょうか?」と兼見は彼らに尋ねたのではないでしょうか。すると彼らは「この吉田山は御屋敷(城廓)を構えるのにうってつけだということを明智光秀(あけちみつひで)が信長様に申し上げたのじゃ。そこで、信長様は我らに吉田山を検分するようお命じになられたのだ」と答えるではありませんか。

兼見邸に突然やってきた豪華メンバー!でもちょっと横暴すぎ…?(イラスト/nene)
「?」―兼見は彼らの言葉を聞いて、キョトンとした顔になったかもしれません。あるいは同時に(光秀!)と知り合いである明智光秀に(何と余計なことを進言したんだ)と怒りの色が滲んだかもしれません。とはいえ、兼見は「検分、嫌です」と言うわけにもいかず「御意のままに」と従うしかありませんでした。
ところが、検分の結果、この辺りは、屋敷を構えるのに適さないことが判明!「安堵」と言う文字が日記にも見えますが、兼見は結果に安心し、喜んだはずです。(良かった)と言う兼見の声が日記から聞こえて来ます。その後、兼見は武将らを私宅に招き、取り敢えず「小漬」を差し上げたとありますので、簡単な食事(湯漬け)でも提供したのでしょう。
それにしても、アポなしでいきなり吉田家の土地検分を始める信長家臣。勝手に人の土地を屋敷にすればと推薦する光秀。現代人から見たら、彼らはとても「横暴」で「図々しい」…。何はともあれ、吉田山を勝手に城に改造されなくて良かったですね!