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戦国武将がサウナで“ととのう”!神官の日記が伝える明智光秀の癒しの時間

戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~


近年、空前のサウナブームが巻き起こり、“サウナー”と称される愛好家たちも増えていますね。実は約500年前の戦国時代にもサウナは人気があり、当時の神官・吉田兼見によって書かれた日記『兼見卿記』には、「本能寺の変」で有名な名将・明智光秀とサウナにまつわる記事も残っているとか。一体どんな内容なのでしょうか…?


 

■戦国時代を知る貴重な史料『兼見卿記』とは?

 

 戦国時代という激動の時代を生きた公卿の1人に、吉田兼見(よしだかねみ/1535~1610)がいます。兼見が生まれた吉田家は、京都の吉田神社に奉仕する神職の家でもありました。

 

 そんな彼は『兼見卿記』(かねみきょうき)と呼ばれる日記を残しています。神職である兼見の日記ですから神事に関する記述が多いのですが、それ以外にも、織田信長(おだのぶなが)や明智光秀(あけちみつひで)ら武将たちのプライベートな姿や、戦国時代の人々の知られざる日常が垣間見える貴重な記述がたくさんあるのです。ここでは、その中からとっておきのエピソードをご紹介していきます。

 

■明智光秀は“サウナー”だった?

 

 さて、兼見と言えば、明智光秀と交流があったことで知られます。本能寺の変(1582年)で主君・織田信長を討つことになるあの光秀です。兼見と光秀との交流が日記で分かるのが、元亀元年(1570)11月13日のこと。元亀元年というと、その年の6月には、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍による姉川の戦いがあった年です。その日の日記に、「光秀が兼見の邸にやって来た」とあります。では、光秀は何しに兼見邸に?

 

 日記には「石風呂所望」とあります。光秀は石風呂に入ることを望んだのです。石風呂というのは、今風に言えばサウナのようなもの。ですから風呂といっても湯に浸かるわけではありません。焼いた石に水をかけて蒸気を発生させて入るのです。よって日記には「光秀が石風呂を希望したので石を焼いた」とあります。

 

明智光秀もサウナ好きだった…?(イラスト/nene)

 

 日記の中ではこの日が初登場の光秀ですが、史料に掲載されていないからといって、それまで兼見と全く接点がなかったわけではないでしょう。接点が全くないのに、いきなり風呂を所望するというのもおかしな話ですよね。兼見と光秀は、それまでに関係を持ち、ある程度の仲になっていたからこそ、光秀は兼見邸の石風呂に入りにきたと推測されます。

 

 さて、光秀が初めて兼見の石風呂に来たのが、11月13日。実はその10日後(11月23日)に、またしても光秀から石風呂に入りたいと連絡があるのです。「早々に石を焼いた」とありますので、急な申し出だったのでしょうか。兼見の家の者は(またかよ)と感じたかもしれませんね。

 

 この年、光秀は若狭国(わかさのくに)に派遣(4月)されたり、姉川の戦い(6月)にも参戦しています。結構な疲労が溜まっていたのかもしれません。わずか10日後にまた「石風呂に入りたい」と連絡してきた光秀。石風呂(サウナ)の魅力にすっかりハマってしまったのでしょうか。石風呂は光秀にとって癒しの空間であり、身体が“ととのう”場であったのでしょう。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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