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天下人・家康は初陣をどう戦ったのか?

「歴史人」こぼれ話・第32回

 松平家の家臣団を歓喜させた初陣


家康が初陣で攻めた寺部城跡の石碑。寺部城は鈴木重辰の祖父重時によって建立され、後に尾張徳川家家老の居城として活用された。

 武将には誰しも初陣がある。もちろん、それは、後に天下人となった徳川家康(とくがわいえやす)も例外ではない。松平元康(まつだいらもとやす/後の徳川家康)の初陣は、永禄元年(15582月のことだった。

 

 当時、元康は駿河国(するがのくに)の大名・今川義元(いまがわよしもと)の武将だったが、その義元の命令を受けて出陣した。最初の攻撃目標は、突如として、尾張の織田方に寝返った寺部城(てらべじょう/愛知県豊田市)主・鈴木重辰(すずきしげたつ)。三河は、今川氏と織田氏の対立の最前線となっていた。重辰には、広瀬(豊田市)城主の三宅高清も加勢していた。

 

『三河物語(みかわものがたり)』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門著)によると、元康は岡崎から寺部城に向けて、進軍。外曲輪(そとぐるわ)を破り、城に放火して、また岡崎に戻ったという。

 

 元康軍の動きはそれに止まらず、梅が坪城にも攻め寄せ、敵を退散させた。同城からは、敵兵が打って出てきたようだが、それを追い散らした。敵兵が退却した隙をつき、城に攻め入り、外構に敵軍を追い込んでいった。

 

 二の丸・三の丸を焼き払い、元康軍は多くの敵を討ち取ったようだ。再び、岡崎に戻った元康軍は、広瀬城、挙母(ころも/豊田市)の城へも押し寄せていった。そして、先ほどと同じく、多くの敵兵を討ち、城構えを壊し、火を放って、岡崎に退いていった。その後、元康は駿河に帰り、見事、初陣を勝利で飾ったのだ。

 

 この元康の活躍に、譜代の家臣団は歓喜したという。「苦しいなかでお育ちになり、軍略は如何かと朝夕、案じていたが、松平清康様(きよやす/元康の祖父)の威勢にそっくりになられたことよ。めでたい」と涙を流して喜んだ。以上が、『三河物語』で描かれた元康の初陣だ。

 

 では、徳川幕府が編纂した史書『徳川実紀(とくがわじっき)』では、元康の初陣はどのように記されているのだろうか。そこでも同じく、鈴木氏が籠る寺部城を攻めた、これが元康の初陣であったと書かれている。

 

 元康は陣中において、諸将を集め、次のように言った。「敵はこの一城とは限らぬ。諸所の敵城より、後詰めがあったならば、由々しき大事じゃ。先ず、枝葉を刈り取り、それから後で根を断つべし」と。

 

 元康はそう言うと、城下に放火し、一旦、引き上げた。元康に従う宿老(酒井氏、石川氏)などは、元康のこの采配を見て「我々もこれまで戦場において戦をしてきたが、これほどまでの深謀遠慮はしなかった。若くしての初陣において、既にこのようなお心構え。後々、どのような名将となられるであろうか」とこれまた涙を流したとのことだった。

 

 この寺部城の戦いは、同年4月下旬には、終結したと考えられている。今川義元も、元康の初陣での武功を称し「旧領のうち、山中三百貫の地」を返還したという。元康の初陣は、成功のうちに終わった。これは天下人・家康に相応しい初陣と言えるだろう。

 

 今川義元の死後、元康は三河平定の戦に乗り出すが、その時にも再び、寺部城を攻撃し、城を乗っ取っている(『三河物語』)。この時、元康は初陣のことを思い出しのだろうか。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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