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当時、来日した外国人は「家康」をどう評価していたのか?

「歴史人」こぼれ話・第33回

実際に対面した2人の外国人による家康評

駿府城(静岡県静岡市)に立つ、徳川家康像。家康が好んだ鷹狩の様子がモチーフ。

 戦国時代から江戸時代には、多くの外国人が来日していた。キリスト教の布教のため、商いのため、そして日本を武力で征服せんという野望を抱いた者も、やって来てきたと言われている。

 

 来日した宣教師の中で有名な人と言えば、イエズス会のフランシスコ・ザビエルや『日本史』を著したルイス・フロイスなどだ。フロイスは、あの織田信長や豊臣秀吉とも会見し、彼らの印象を記している。

 

 例えば、信長については朝早く起き、酒を好まず、健康的な生活を送っていたとのこと。声質は快調で、髭は少ない。性格は好戦的だが、正義感が強く、名誉心にも富んでいたとしている。普段は穏やかだが、時に激昂することもあったようで、他の武将・大名に対しても、軽蔑した態度を取り、人々は絶対君主に対するように信長に服従していたとする。この逸話などは、我々が持つ信長のイメージに近いものがある。

 

 では、秀吉はどうだったのか。秀吉の身長は低く、醜い容貌をしており、気品にも欠けていたとフロイスは指摘しているので、低評価と言えるだろう。一方で、フロイスが秀吉をここまで「口撃」するのは、秀吉がバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止したからだという説もある。

 

 さて、では大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、外国人からどう見られていたのだろうか。スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロ(1564〜1636)が執筆した書物『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、ビベロが駿府にて家康と面会した時の様子が記されている。慶長14年(1609)の出来事というから、関ヶ原の戦い(1600)から9年後のことだった。

 

 ビベロは家康のことを「皇帝」、その後継者で二代将軍・徳川秀忠のことを「太子」と記している。家康について、ビベロは60歳の中背の老人と書いている(家康は1543年生まれなので、実際は66歳)。そして、家康の容姿を「尊敬すべき愉快な容貌をしており、太子(秀忠)のように色は黒くなく、また彼より肥満していた」と記している。

 

 これは、残された家康の肖像画を彷彿とさせるような一文だ。謁見の際、最敬礼するビベロに対し、当初、表情を変えなかった家康も、少し頭を下げ、好意的な微笑を示したという。

 

 家康は、外国人を政治・外交顧問として仕えさせたことで知られている。有名なところで言えば、イングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)だ。慶長5年(1600)に九州に漂着したアダムスは、大坂に送られ、家康と会見。その後、家康に信頼されて、相模国三浦郡逸見村(横須賀市)に知行地を与えられることになる。 通商を求めるイングランド国王ジェームズ1世の国書を持って来日したジョン・セーリスは、駿府城で家康と面会した(1613)。

 

 家康はアダムスやセーリスに、イギリス商館の設置場所などについて尋ねたという。ここからは、貿易にも関心を持つ家康の姿が垣間見える。信長や秀吉のように、強烈な「個性」が記されているわけではないが「尊敬すべき愉快な容貌」と、家康は外国人からも尊敬の眼差しで見られていたことが分かる。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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