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家康を支えた「徳川四天王」の功績

学び直す「家康」⑬

家康の軍事的躍進を支えた徳川四天王

東岡崎駅(愛知県岡崎市康生町)に立つ酒井忠次像。家康の父・松平広忠時代から仕える重臣。軍事面だけでなく、外交でも活躍。だが、家康の嫡男・信康が武田内通を疑われた際、信長への弁明に失敗。その後、家康との関係に微妙な影を落とした。

 家康の天下取りを主として軍事面で支えた重臣4人を「徳川四天王(してんのう)」と呼ぶ。本来、四天王とは仏法を守護する持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)を指し甲冑(かっちゅう)を纏(まと)っていることから、人々は大将を守る武将4人を選び「四天王」というようになった。

 

 徳川四天王は、酒井忠次(さかいただつぐ)・本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)・井伊直政(いいなおまさ)をいう。

 

 ただ、忠次のみは忠勝・康政とは21歳、直政とは34歳も年長であり、主君の家康よりも15歳年長になる。しかし忠次は三河以来の家康の補佐役であり、若い家康が大名として成長する過程で、軍事・人事あらゆる面で必要な存在であった。

 

 特に、今川方の三河・吉田城の戦い、信玄との三方ヶ原合戦、勝頼との長篠(ながしの)・設楽ヶ原(したらがはら)合戦では、抜群の手柄を立てている。

 

 忠次は、大永7年(1527)生まれ。家康の叔母(父・広忠の妹)の夫であり、常に徳川家臣団・軍団の筆頭にいた。家康の関東入りでは下総・碓井(うすい)城3万石を得るが、後に出羽(でわ)・庄内(しょうない)藩14万石の藩祖となる。

 

 本多忠勝は、天文17年(1548)に三河・洞村で生まれた。父・忠高(ただたか)は織田方の安祥城攻撃の際に討ち死にしている。忠勝は僅か1歳であった。通称・平八郎(へいはちろう)の名前で知られ、名鑓・蜻蛉切(とんぼぎり)を振るって数多くの合戦で先陣を切って武功を上げた。後に武田方との戦いでは「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と囃(はや)された。

 

 信長からは「果華兼備の勇士」と讃えられ、秀吉からは「東国無双の武将」と褒められている。家康への無私の忠誠ぶりが信長・秀吉の目には快い武将として映ったのである。

 

 小牧・長久手の戦いでは、300の寡兵で数万の大軍を迎え撃ち、敵将・秀吉の舌を巻かせた。また忠勝の長女・小松殿は真田信幸(のぶゆき/信之)に嫁している。家康の関東入府後、上総・大多喜(おおたき)城10万石の城主となる。関ヶ原合戦の後には家康から諸将を統括し、天下の政治を論議することを命じられたという。

 

 榊原康政は、忠勝と同じ年齢であった。通称を小平太といい、康政の名乗りは、家康の偏諱(へんき)を与えられた。小姓として仕え、旗本先手役となり、家康の合戦のほとんど全てに従軍している。

 

 元亀元年6月の姉川合戦では、浅井長政(あざいながまさ)の援軍・朝倉軍と戦っていたが、信長軍が浅井勢に攻め立てられ後退すると、康政の部隊が浅井勢の側面を衝き、織田・徳川連合軍に勝利を呼び込んだ。信玄との三方ヶ原合戦でも、大敗北の徳川勢の中でただ1人三方ヶ原の一角に踏み留まり浜松城包囲に向かう武田軍の背後を脅かす役割を果たした。これによって信玄は浜松城攻撃を諦めたといわれる。

 

 康政は武勇だけではなく智恵も働いた。小牧・長久手の戦いでは、豊臣10万に対して徳川1万6千という圧倒的不利の中で康政は秀吉を挑発する檄文を書いて秀吉側の諸将に送り付けた。これを怒り冷静さを失った秀吉が、徳川の局地戦に導かれて敗れたといわれる。後に、康政は上州(じょうしゅう)・館林(たてばやし)10万石の城主となる。

 

 忠次・忠勝・康政はいずれも三河譜代であるが、井伊直政は遠江出身である。直政は他の3人より遙かに若いが、家康からは最も信頼された家臣であったという。初陣は天正4年(1576)、武田勝頼との遠江芝原合戦である。直政は15歳であった。以後、忠勝・康政の旗本先手役と並んで徳川軍の先鋒を務めた。

 

 天正10年3月の勝頼滅亡後、家康は多くの武田旧臣を召し抱えたが、その中で最強とされた山県昌景(やまがたまさかげ)隊の赤備え(甲冑・武具・馬具まで赤一色の部隊)を任された。これによって「井伊の赤備(あかぞなえ)」が誕生し、直政は「井伊の赤鬼」と綽名(あだな)されるほどの猛将となる。

 

 井伊の赤備えは、関ヶ原、大坂の陣まで、これ以後の徳川軍団の中核部隊として活躍する。家康の関東転封後、直政は上野・箕輪12万石というトップの所領を得る。家康の時代より後になって4人が「四天王」という特別な呼称で讃えられるようになったのである。

 

監修・文/江宮隆之

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より

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